緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

刑法の基本書についての誤解

刑法ではおなじみの基本書について書こうと思いましたが、何の前振りもなく基本書をご紹介するのもどうかと思いましたので、記事一つを費やして、基本書についての誤解を可能な限り正しておきたいと思います。もしかしたら、失礼なことを書くことになるかもしれませんが、ご容赦ください…

今回、誤解としてあげるのは、次の3つです。これらは、必ずしも誤解とは言い切れないものも含まれてはいますが、私からすると、過度に誇張され、あるいは、偏見が加えられて出回っているように思われます。

  • 誤解1:基本書中心の勉強方法では合格しない
  • 誤解2:基本書には通説が載っていない
  • 誤解3:基本書は判例に批判的だからダメ

それでは、少々荷が重いテーマではありますが、順に考えていこうと思います。なお、本記事は、インプット(読むこと中心)かアウトプット(書くこと中心)か、という問題と切り離してお読みください(これについては、また別の記事で書くと思います)。

◆誤解① 基本書中心の勉強方法では合格しない

はじめに断っておかなければいけないことがあります。予備校本を叩いて基本書をプッシュするのだろうと思われた方もいるかもしれませんが、その考え方は採用しません。断っておく必要があるのは、司法試験に受かりたいのならば、まともに基本書を読むなということです。より厳密に言えば、基本書を重視しない勉強方法のほうが合格する確率が高いからそうすべきだということです。このような言い方は色々な意味で大変心苦しいのですが、実際のところ、合格者の多くはそういう人たちです。しかし、後述しますが、これは基本書中心の勉強方法が多くの人にとって受験に最適ではないということなのであって、基本書中心の勉強方法自体が悪いことを意味しません。なんだか矛盾するようなことを言っていると思われるかもしれません。しかし、ここでクローズアップしたい問題は、なぜ「基本書中心の勉強方法では合格しない」のかという部分です。個人的には、ここをよく分かっていない方が多いように思います。

理由は、極めてシンプルです。そもそも基本書は、能力のある人にしか読みこなせないからです。誤解がたいへん多いですが、基本書が受験向きでないことや、実務から離れた机上の空論であること、通説を採用していないことなどは、事実か否かにかかわらずほとんど関係がありません(無関係とまでは言いませんが)。それらは、試験に合格した人たちの生存者バイアスであり、事後的なラベリングです。因果関係ではなく、相関関係です(正確に言えば、疑似相関ですが)。

これは、投資の世界などではわりと有名な話です。たとえば、短期的な株価について上下にふれる確率が50:50であれば、必ず半分は勝者、半分は敗者になります(手数料を無視すればゼロサムゲームです)。そして、ゲームに勝った人は、いろいろな(誤った)理由を大真面目に吹聴するわけです。「こういうふうにチャートを読むべきだ。俺はそれであたった」くらいならまだいいほうですが、過去にはスカート丈の長さが株価に影響しているという理論が出回ったこともありました。スカート丈あたりになるとどう考えても馬鹿らしい話ですが、もっともらしく装えば容易に誤信しかねないことは理解できるでしょう。儲けられるチャートの読み方(このような書籍は書店でいくらでも売っていますが)は、もっともらしいという点でむしろよくないかもしれません。そして、基本書を重視しないことの肯定的イメージ(あるいは、基本書について回るマイナスイメージ)も、構造的には同根の問題です。

具体的に考えてみましょう。いかに司法試験と言えども、そもそも受験者に含まれる能力のある人(ここでは、基本書を読みこなせる能力のある人という意味で限定して用います。常に目的を意識して本を読める人や、記憶力のある人などです)は少数です。彼・彼女たちは、基本書を使った勉強の仕方をしても合格します。それ以外の人は、まともに基本書を読みこなせないので、基本書を使わない勉強方法(たとえば、手軽な予備校本レジュメの類など)で合格できます。そうすると、合格者全体から見ると、基本書を使った勉強をしていた人は少数です。裏を返せば、合格者の多くは、基本書を重視していない人たちということになります。合格体験記や合格者懇談会、後輩への指導では、普通は合格した自分の勉強方法を話しますから、したがって、基本書をあまり使わない勉強方法が多く紹介されることになります(合格者は、基本書が「読めなかった」とは言わず「読まなかった」と言うでしょう)。それゆえ、私たちがそれらを目にする確率も高くなります。他方で、合格しなかった人たちはどうかというと、典型例の一つとして、能力に見合わず基本書を重視していた人ということがあげられるでしょう。予備校でも説明があるのではないかと思いますが、「こういう人は落ちる」という典型例がこのタイプです(特に、多くの基本書に手を出している人でしょうか)。予備校が「基本書を重視する人」をあげている(かどうかはわかりませんが)とすれば、この点において、誤りがあるわけではありません。しかし、不合格者の典型例は「能力に見合わずに基本書を使っていた人」です。見かけ上、基本書を重視した勉強方法が不合格を招いているにすぎません。そこを誤解しないでください。基本書が難しくて万人向けでないのはその通りですが、だからといって、不当に基本書を用いた勉強方法を貶めるのはよくありません。

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要するに、合否を分けているのは、基本書を使った勉強方法をするかしないかではなく、基本書を中心とした勉強をする場合に、自分に基本書を読む能力があるかどうかです。ですから、基本書を読むなという意味は、あなたの能力が高くなければ読めないから読むな、という以上の意味はないわけです。ただ、この記事を読む人もそうかどうかは判断しかねますが、大変不遜な言い方で恐縮ですが、多くの人は能力がないので基本書を重視した勉強方法をおすすめすることはできません。これは、基本書を読めない人が人間的に劣っているとかそういうことではなく、向き不向きの問題です。自分の能力の長短に照らして、ベストな勉強方法を選択してください。人間には、方法について向き不向きがあります(方法の向き不向きについては、P.F.ドラッカー(上田惇生編訳)『プロフェッショナルの条件』(ダイヤモンド社、2000年)114頁以下参照)

◆誤解② 基本書には通説が載っていない

よくある誤解の2つ目が、「基本書はどれもその教授の自説ばかりで通説が載ってない」というものです。しかし、よく考えてみてください。どの基本書にも書かれていない説は、それは本当に通説なのでしょうか? そもそも「通説」とは何か、という話になりますが、少なくとも、誰も採用していない説を通説と呼ぶには抵抗があります。私は、「通説」と呼ばれている見解を大学生協書店に置かれている基本書すべて(20冊弱くらいでしょうか)についてカウントしてみたことがありますが(暇人でごめんなさい)、その「通説」は誰も支持していなかったということもかなりありました。

基本書と呼ばれるものは、(語源が何かは知りませんが)多くの場合は基本法の教科書であり、学術論文集ではありません。最先端の学術論文と基本書とを比べればわかると思いますが、基本書の内容は、まさに「基本」であって、先端的な議論も独自説もほとんど載っていません(学生向けでない体系書は別なので注意してください。「はしがき」を見て区別しましょう)。皆さんが使うような基本書を書けるのは、学界の中でも古株の著名な先生です。皆さんにとって全く新しい見解のように見えたり、いきなりの改説であるかのように見えたとしても、実際には、過去に刑法学会(ここでの発表の仕方がまた古典的なんですが)や法学系の雑誌で発表し、分科会やらワークショップやらフォーラムやらで議論され、固まってきた学説です。ですから、通説かどうかを気にしなくても基本的に問題はないわけです。

刑法総論では、団藤・大塚説が通説であると考える人もいるかもしれません。たしかに、団藤先生や大塚先生の見解は、学説・実務に大きな影響を与えています。現在の学説は、団藤・大塚説から展開されたものであるとさえ言えるでしょう。団藤・大塚説は、実務家にも広く共有されています。しかしながら、だからといって団藤・大塚説が通説であるとは言えないのではないでしょうか。例をあげてみましょう。共謀共同正犯否定説は、もともと団藤・大塚説が採用していた学説です。現在の学説は、これを踏まえて展開されています。実務でも共謀共同正犯否定説を知らない人は(たぶん)いません。しかし、共謀共同正犯否定説を通説と呼ぶには、明らかに問題があります。なぜならば、もはや支持する人がいないと言いうるからです。したがって、団藤・大塚説は、必ずしも通説ではありません。皆さんの中には、裁判所書記官研修所編の『刑法総論講義案』を使っている人もいるかもしれません。これも誤解のひとつですが、同書は、実務で使われている見解について書かれたものではなく、書いた実務家の学生時代(あるいは初版を書いた当時)の通説・有力説(すなわち、団藤・大塚説)について実務を考慮して記述したものなのです。ここで言いたいことは、あなたが勉強しなければならないのは、現在主張されている見解であって、過去の通説であってはならないということです。予備校の問題集(『えんしゅう本』などでしょうか)と対応していないから不便ではないかと思われるかもしれませんが、それでもなお自分の頭で考えなくてはなりません。予備校本は便利でわかりやすいですが、議論も論証パターンも、もはや古すぎます(なぜ刷新しないのか疑問ですが)。

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そもそも、なぜ皆さんが通説を知りたがるのかというと、「正解」を求めているからではないですか? だから、「通説」以外の考え方は「正解」でないと思い込みたいのです。ここで断言しておかなければならないのですが、現在では、少なくとも刑法(特に刑法総論)において通説はありません。「通説」は、実務家に共有されていて、それ以外の説だと受け入れてもらえないというのは、実務家でない誰かから聞いたものではないですか? しかし、それは実務家を馬鹿にしているとさえ言いうる偏見です。実務では、説得力があるかどうかが重要なのであって、筋が通っていればそれで構わないのです。誰が主張しているか、それが通説か、などはどうでもいい話で、通説を知らないと実務ができないなどといったことはありません。頻繁に改正される特別法の分野(たとえば、金融商品取引法など)に通説なるものがあると思いますか? 新しく制定された法律(たとえば、特定秘密保護法)にどう対処するのですか? それでも、いや、基本法たる刑法については通説が重要なのだ、と思われるかもしれません。そのような方は、一度、自分に問いかけるべきです。なぜ通説を知らなければいけないのかと。試験に合格することを目的とするにしても、通説である必要はないのではないですか? ありもしない通説を追い求めて、予備校が通説と思っている見解や過去の通説に囚われることは好ましくありません。自分の納得できる考え方を自分の頭で考えて、さしあたり採用しておけばよいのです(なお、当ブログでは、極力ですが「通説」という言葉を使わないようにしています)。

◆誤解③ 基本書は判例に批判的だからダメ

上の2つの誤解と比べると、たいしたことはないですが、これも基本書についてよくわかっていない考え方です。判例の立場を知りたければ、そもそも判例がありますので、そちらを読みましょう。基本書よりも何よりも判例から読むべきでしょう。さらに言えば、判例の前に条文を読むべきでしょう。あなたが基本書に求めているものは何なのでしょうか? 目的も分からず基本書を読んでいませんか? 判例を理論的に位置づけ、判例の射程を画するのが学説(の任務の一つ)です。理論的に許容できない判例は批判されます。判例とは、原則として最高裁判決又は決定(文)のうち当該事案の解決に必要不可欠な結論命題をいいますから、判例を読むときには、まず「Pの場合は、Qと解するのが相当である」(P→Q)という部分を見るわけです。次に、基本書でその位置づけ(どこの文言の解釈なのかなど)を把握し、どのような理由付けがなされているのかを確認します。学説の批判は、この段階で考慮すべきもので、判例について多角的に検討し、その射程を見極めるためには重要なものです。むしろ、判例の立場をそのまま書いてある基本書があれば、基本書として何の価値もありません。それならば、判例集を読めばよいからです(→「『判例』の読み方 入門編」参照)

以上ですが、誤解を正せたでしょうか。私自身、誤解があるかもしれませんし、きっとあるのだろうと思いつつ書いてみましたが、ひとつの参考になりましたら幸いです。

 

▼基本書の使い方については、こちらをご覧ください

▼実践的な判例の読み方については、こちらをご覧ください

▼刑法総論の基本書については、こちらもお読みください

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