緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

主観的違法要素

こんにちは~

まだ風邪が治らなくてつらいです。むしろ、どんどんひどくなってるかんじがします…(TT) 今年の風邪はしつこいですので、みなさんもお気を付けください…

例によって、この記事の位置づけです。

今回は、違法論第4回「主観的違法要素」というテーマです。主観的違法要素を認めるかどうかが結果無価値論行為無価値論分水嶺であるとも言われています。

今一度、結果無価値論と行為無価値論の対立の意義を確認しておきますと、この対立は、具体的な事案の解決を意図したものではなく、解釈論を通して刑罰観を明らかにすることを意図したものでした。モデル論の対立は、いわば下ではなく上を目指しています。「具体的な事案処理と刑罰の目的のいずれが大切か」ではなく、「どちらも大切」ですので、どちらか一方に偏らないように注意してください。このブログの一連の記事は、「上」を向いていますが、「下」があることも忘れないようにお願いします。

違法要素となるかどうか議論がある主観的要素を扱うわけですが、ここでは、「不法領得の意思」や「図利加害目的」などの各論の解釈に強く影響される主観的要素はバッサリカットします。この記事で扱うのは、故意、②行為意思、③正犯意思の3つだけです。

結果無価値論のほうがシンプルなので、こちらから説明します。

まず、故意、行為意思、正犯意思は、それぞれまったく別物だと理解します。機能(それらが要求される趣旨)に違いがあるから、まったく別の概念だと考えるわけです。①故意は、応報的非難を強める責任要素(責任構成要件要素ないし責任形式)ですが、②行為意思と③正犯意思は、法益侵害又はその危険の惹起を強める限度で違法要素として把握されます(未遂犯など)。また、結果無価値論の場合には、「重要な役割」や「重大な因果的寄与」といったように、正犯性を原則として客観的に考えるので、正犯意思が独立の要件となることはありません。このように、主観的違法要素は、あくまでも個別例外的に考慮されるにとどまります。この点に関しては、第3回でも「例外的な事前判断」として指摘しました。

たとえば、ある結果無価値論者は、次のように述べています。

行為の違法性を基礎付ける事実を認識・予見した者は、それにより当該行為を行うことが違法であるとの認識(違法性の意識)に到達し、反対動機を形成して、当該行為にでることを思いとどまらなければならない。規範意識を十分に働かせず(規範意識の不十分さのために)行為にでた場合には、それにもかかわらず行為にでないことが期待され、行為にでたことが非難されることになるのである。(山口・総論2版186頁)

具体的危険の発生の判断に際しては、行為者の(法益侵害惹起行為を行おうとする)行為意思が考慮される(この意味で、行為意思は主観的違法要素である)。(同書271頁)

このように、主観的要素は、個別的に理解されることになります。

これに対して、行為無価値論は、①故意、②行為意思、③正犯意思を統一的に把握する傾向にあります。「行為規範による人の意思への働きかけ」(を再帰的に構成すること)によって犯罪の一般予防が達成されると考えるので、故意、行為意思、正犯意思は、それぞれが行為規範が働きかけるべき「意思」の異なる側面だと考えるのです。犯罪論の各段階で、ひとつの「意思」を多角的に検討するというイメージです。

たとえば、ある行為無価値論者は、次のように述べています。

実はここにこそ目的的行為論の主張の真に革命的な部分がある。すなわち、それは、行為者が知らなかったことが違法評価(行為不法の評価)の対象になることはないという思想である。なぜそのように考えるかといえば、われわれの行動とそれに起因する結果の惹起をわれわれじしんが意思に基づいて制御しようとするとき、現に認識された事情のみを前提としてしかこれを制御できないからである。(井田・理論構造25頁)

刑法の目的は法益侵害および危殆化を抑止するところにあるから、法益侵害ないし危殆化に向けられた意思的行動に対しては、特に重い規範的評価を加えることが刑法〔の規範による一般予防〕の目的にかなっている。(同書64頁)

因果性・危険性〔…〕とならんで正犯性を基礎づける本質的要素は、因果経過を利用して結果を実現しようとする意思、すなわち「故意」である(それだからこそ、行為支配は「目的的行為支配」とも呼ばれる)。〔…〕実のところ、行為支配説とは、行為者に故意を捨てさせ規範違反をやめさせることにより法益を保護しようとする刑法理論、すなわち行為無価値論の共犯論における別称に他ならない。(同書298頁)

このように、主観的要素は、統一的に理解されることになります(なお、井田先生の場合は、「正犯意思」ではなく「行為支配」という用語を使っています。ドイツのクラウス・ロクシンのように行為支配概念を別個に考えていくべきだする立場もありますが、井田先生の場合は「意思」にアクセントが置かれていますので、この記事に限って言えば、「正犯意思」についても「行為支配」と同様に考えて差し支えないように思われます)

どちらがよいというものではないですが、刑罰観の違いは反映されているように思われます(ただ、引用文からも微妙に読み取れないではないですが、山口先生はなんとなく目的刑論に傾斜してきているように思われます)。この記事では、わかりやすさの都合上、両極の見解を取り上げましたが、もちろんこれら2つの見解以外にもたくさんの見解があります。

もう一度、念を押しておきますが、以上の対立から具体的な帰結に大きな影響があるというわけではありません。ここまで対立しながら、なんだか不思議な気がしますが、結局は、結論に至るプロセスの相違ということになるでしょう。この対立は、細かい結論を突き詰めようとしているわけではなく、理由を深く掘り下げているのです。たいへん恐縮ですが、露骨に言えば、具体的な事案の解決に役立つという意味での実益はほとんどありません。モデル論の意義に関しては、別の記事でもう少し触れられたらと思います。

それではまた~

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