緋色の7年間

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「ケース・セオリー」とは何か

今回のテーマは、刑事弁護における「ケース・セオリー」です。

ケース・セオリーとは、日本の刑事弁護実務においては、「当事者が求める結論が正しいことを説得する論拠」をいいます。が、この定義については、個人的にはややポイントがずれているように思います。私が英語圏の文献を見る限りでは、ケース・セオリーとは、①事実と法的主張を1~3文でまとめたものであって、②裁判所に対して常識や感情に訴えかける、③当該事案の核となる弁護側の物語、というかんじです(一種の物語論 narrative approach)。日本の文献はあまりつっこんで論じていませんが、従来の刑事弁護と比較して②の感情的要素が特異な点です。ケース・セオリーでは、感情を動かすような簡潔な物語(の表現)が要求されているのです。このような意味で、単なる「説得的論拠」ではありません。

それでは、なぜケース・セオリーを考えなければならないのでしょうか? 従来のやり方ではいけないのでしょうか?

1 評議のブラックボックスの中身

まずは、問題意識の把握からはじめましょう。

日本の刑事裁判においてケース・セオリーの考え方が持ち出された背景には、刑事司法に対する「裁判員裁判」の導入があります。

従来は、職業裁判官が、

  1. 事実・事情を認定する
  2. それについて積極/消極の意味付けをする
  3. その重みを考える

という判断を行っていました。職業裁判官は、分厚い事件記録を読んで、大量の事実を「認定→符号化→定量化」のサイクルに放り込み、最終的にはそれらを総合考慮して判断していたわけです(たとえば、司研63輯3号31頁以下参照)。事件記録にラインマーカー(えんぴつ?)を引くとか付箋を貼るとか、みなさんたぶんそういうことをやりますよね。このような方法を「調書裁判」と呼びます。検察官や弁護人としては、とりあえず各自に有利な事実とそれを裏付ける証拠さえ出しておけば、あとは職業裁判官が「適切に」判断してくれていたのです。

ところが、裁判員裁判では、そのような方法をとることはできません。なぜならば、裁判員は事件記録もラインマーカーも付箋も持っていないから職業裁判官のような分析的な検討ができないからです(司研61輯2号11頁参照)。たとえば、特定の事情に引きずられることもありますし、事実の全体を見渡して判断するだけの能力も訓練されていないことが多いでしょう。さらに、職業裁判官と裁判員の技能上の格差だけではなく、「評議」という方法の構造上の支障があります。これが決定的な問題です。

一般的に、評議では、裁判長の配慮により(裁判員法66条5項)、裁判員それぞれがひとつずつ事実・事情について、時に自由に、時に順々に、語っていくことになります。しかし、この方法では、多数の裁判員との会話を裁判長に要求することになりますので、裁判員の拘束時間の都合上、大量の事実を捌ききれません(裁判員法51条参照。なお、司研61輯2号12-13頁参照)。また、たとえ全部の事実を捌ききったとしても、裁判員は最初のほうに検討したことを忘れてしまいます。何より、最終的に「総合考慮」する際に、裁判員は、どう判断してよいのか途方に暮れてしまいます。「総合考慮」による判断はブラックボックス同然ですから、職業裁判官も裁判員に対してそのあたりを明確に説明することはできません。

観念的には、裁判員による全事情に対する定量的判断を「平均」して一定の閾値(合理的な疑いを挟まない程度)を超えれば事実認定されるということになるのかもしれません。しかし、そんな数値的な判断を求めることは困難でしょう。したがって、理屈的には、どういう経過を辿るにしても、職業裁判官は、裁判員に対し、「結局のところ、この事案はどういうものだったのでしょうか?」、「一言でいえば、どんな事案だと考えますか?」などと言って評議をまとめるしかないのです。たとえば、殺意の有無が争われている事案であれば、最終的には「刃物がたまたまはずみで被害者の胸に刺さってしまったのでしょうか、それとも加害者が意図して被害者を刺したのでしょうか、どちらだと思いますか?」などと問いかけることになるのではないかと思われます。要するに、裁判員は「どういう事案(ケース)だったか」という直感的な「印象」をわりとそのまま「心証」に反映させることになります(自由印象主義)

このような実態を踏まえてお伺い致しますけれど、裁判官と裁判員に対して事実と証拠だけ淡々と提示すれば彼・彼女らが適切に判断してくれると、本当にそう思いますか?

2 劇場型公判システム(いわゆる「当事者主義への回帰」)

そこで、このような裁判員裁判における裁判体の最終的な心証形成過程の実態から逆算して、「どういう事案(ケース)だったか」という簡潔なストーリーをあらかじめ作り込んでおき、その論証を仕込んでおくという印象操作心証コントロールの戦略ないし理論を打ち立てるべきことになります。これが「ケース・セオリー」です。俗っぽく言えば、どちらが腑に落ちるストーリーかという「シナリオバトル」の戦法です。だからこそ感情を動かすわかりやすい物語が必要とされるのです。そして、ケース・セオリーが確立されることの帰結として、劇場型公判システムが形成されることになります。このような公判の在り方は、本来の当事者主義の対審構造(憲法37条参照)を回復させることになりました(司研61輯2号18-23頁参照)。裁判体は、両当事者の相対立する見方・物語の狭間ないし視点反復過程に<現実>を見いだすことになります(パララックス・ヴュー)

具体的な手続としては、証拠調べ手続にあっては検察官のプレゼンテーション(冒頭陳述。「被告人がどのように罪を犯したのか目撃者の証言をよく聞いてください!」云々)だけでなく、弁護人のプレゼンテーション(冒頭陳述。「目撃者の証言をよく聞けば被告人が罪を犯していないことがわかるはずです!」云々)も必要的に要求され(刑訴法316条の30本文、裁判員法49条)、弁論手続にあっては検察官の論告(「このとおり被告人がやりました!」云々)と弁護人の弁論(「ほらね被告人はやってないでしょ!」云々)とで火花を散らすことになります。

この場合の論告や弁論は、従来のような「単なる意見」ではなく、具体的な根拠を伴った事実の主張です。そうでなければ、評議で事実を取り上げる際に裁判員にスルーされてしまうからです(たとえば、司研63輯3号102頁参照)。また、裁判所は、当事者の主張する事実や証拠構造を尊重しなくてはなりません(評議デザイン〔三島聡〕223頁参照)。もはや裁判所が独自に事実を拾い上げて適切に考慮してくれることは期待できません。とりわけ弁論については、公判前整理手続終了時から第一回公判期日までの間に、徹底的に作り込む必要があるのです(想定弁論の重要性)。なお、冒頭陳述や弁論には、パワポ型とか、配付資料型とか、スピーチ型とか、講義型とか、ドラマ仕立て型とか、色々なプレゼンテーション方法があるみたいです。

このように、ケース・セオリーは、公判構造の問題とも深く関わるのです。

・・・というわけで、目指せスーパープレゼンテーション!(結局、従来通りのノリ)

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