緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

論告及び弁論の法的性質

学者・実務家の皆様の説明がぐちゃぐちゃでとてもとてもいらいらしながら考察を加えました。本日のテーマは「論告及び弁論」(と自由心証主義)です。ほんとわけがわからないよ。観点としては、裁判所と当事者の権限分配のお話といったところですかね…

1 主張された事実に対する裁判所拘束力の有無

いわゆる検察官の「論告」と弁護人の「弁論」は、刑訴法上は「意見の陳述」と表現され(刑訴法293条参照)、実際の扱いとしても裁判所にとっては「単なる参考意見」に過ぎないものとされてきました。また、弁論が義務的でないことはもちろん、論告自体が訴訟法上の義務とされておらず国法上の訓示的義務なにそれに過ぎないとされていることからすると(公判概要77頁)、当事者の主張する事実に拘束力はなく、裁判所は当事者の主張から離れて独自に事実を認定することができるかのように思えます。もちろん法律判断については裁判所の専権です。

従来はそのように説明されてきましたし、裁判員裁判導入後の初期段階では裁判員に対してもそういう説明がなされていたのではないかと思われます。しかしながら、裁判員裁判導入以降の「当事者主義への回帰」の流れから(「『ケース・セオリー』とは何か」参照)、当事者の主張する事実には、事実上、拘束力があるものと考えられてきています。評議では、おそらく当事者の主張した具体的な事実をひとつひとつとりあげて検討しているのではないかと思われます。現在の司法研修所も、必ず当事者の主張する事実に対して判断を行うように指導していると聞きます。そうなると、民事訴訟法領域とのアナロジーで考えて、少なくとも重要な間接事実については法的な拘束力を認めても構わないのではないでしょうか。

ただ、論告・弁論における具体的な事実の表現ないし記載が抽象的であったり、そこに評価的な概念を含んでいたりした場合には、判断方法論的に支障があります。実際問題、こういったことは頻繁に起こりうる気がします。この場合には、おそらくは具体的な事実に縮小・還元して理解することになるのでしょう。また、具体的な事実が多すぎる場合には、核となる具体的な事実を特定する必要があるのではないかと思われます。現状、犯罪事実記載例集のようなものはあっても、弁論事実記載例集のようなものはないので(たぶん)、何が核となる事実なのか判然としないところがあります。もっとも、ある程度は類型化できるはずなので、誰か判決理由でも参考にしてそういう記載例集を作ってください(他力本願

2 証拠構造に対する裁判所拘束力の有無

そもそも「当事者の主張する事実」と「当事者の提示する証拠構造」とを厳密に区別できるのかという問題がありますが、そのあたりに立ち入ると収拾がつかないので放置しておきます。無理。

まず、自由心証主義(刑訴法318条)を強調する立場からは、証拠の「立証趣旨(証拠と証明すべき事実との関係。刑訴規則189条1項)には原則として拘束力がないものとされます。立証趣旨次第で証拠能力が変わるなどの例外的な場合(たとえば、犯行再現状況を記載した実況見分調書の伝聞性が問題となる場合など)に限って立証趣旨に拘束力が認められるにとどまります。当事者主義(憲法37条参照)の観点からすると疑問がないわけではないですが、どうも現在までの刑事裁判実務は、この見解で運用されているようです。当然、この帰結として、当事者の提示する「証拠構造(各証拠の有機的関連性を分析したもの。チャート図で示されることが多い。)にも裁判所は拘束されないということになります。なお、「証拠構造」の概念は再審請求事件を契機として発展した裁判所の心証制約を狙いとした考え方でしたが、現在では裁判所や当事者の簡易分析ツールと化しているのが実態です(証拠構造概念の誤用ないし転用)

しかし、そもそも自由心証主義は糾問的な法定証拠主義を原則的に否定することを狙いとした考え方であって、裁判所が何にも拘束されないわけではありません。当事者の訴訟活動による心証コントロールは当然の前提とされているはずです。裁判員裁判導入以降の「当事者主義への回帰」を踏まえるならば、法的拘束力があるとはいわないまでも、裁判所は証拠構造を尊重するべきだということになります(なお、評議デザイン223頁参照)。仮に証拠構造を大きく逸脱した認定がなされるならば、公正な攻防の結果(当事者の論争の結果)とはいえないことが疑われるのではないでしょうか。まぁでもその場合は争点逸脱認定の問題に吸収すればよいという考え方もありえますかね…

3 余談:「経験則」概念の複雑性

裁判所の自由心証といえども経験則の縛りがあります…などという話はよく聞きますが、実際問題として経験則に基づかないで判断する人間なんかいないのではないかと思います。おそらく、法的にはそういうことを言ってるわけではないと思います。素朴に考える人が多いような気がしますが、「経験則」の概念は、単純に、事実認定において証拠から事実を認定する際に持ち出される推論法則ではありません。そんなことは当然であって、それならばあえて「経験則」なる概念を持ち出す必要はないわけです。この「経験則」概念の本質は、裁判所の事実認定について、その判断の検証可能性を担保するために実際に用いられた推論から事後的に抽出されるというところにあります。実のところ、「経験則」を具体的な事案に適用して事実認定をしているわけではありません。いや絶対頭の中でそんなことやってないでしょ。意識しない限り普通は言語表象なんかされていないはずです。回顧的に「経験則が適用された」と思っているに過ぎません。

「経験則」概念の狙いは、事実認定の方法論と本来的に異なるものであって、訴訟外も含めた広い意味での裁判所の判断についての透明性確保・不服申立てのための便宜を図ることにあります。結果として再帰的に裁判所に自己検証を促すにすぎません。このあたりは行政法領域における理由付記の問題に類似した構造です。要するに、裁判所の判断過程をブラックボックスにしないための法技術的概念なのです。これは政策的なものであって決して自然な概念ではありませんし、事実認定論から論理必然的に帰結できるものでもありません。自由心証主義を採用する結果として裁判所の心証がブラックボックスになってしまうことを問題とするメタ的な姿勢なのです。実際の判決では経験則が明示されないこともありますが、裁判所の心証ボックスに疑義が入るときにはそこから経験則が引っ張り出されることになります(なお、最決平成25年10月21日刑集67巻7号755頁参照)。経験則の明示自体は純粋な事実認定論として見れば明らかに不自然かつ不要な記述ですが、事後検証・再考の政策的プロセスを含めたものとして見れば合理的で必要なことでしょう。ここでは、通俗的意味での経験則と法的な意味での経験則を区別することが必要ではないかと思われます。こんなにまぎらわしいのに、なんで文献に書いてくれてないのかさっぱりわからない…私の理解が違うんですかね…

 

このあたり、もう少し研究論文とかあってもよくないですか…

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