緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

もし『デジタルネイチャー』を近現代人が読んだら(※つまりただの感想文)

2018年7月12日 更新

こんにちは~

今回読んだ書籍は、落合陽一『デジタルネイチャー』(PLANETS、2018年。以下「DN」といいます。)です。

私自身はもともと物理学方面の人間でしたが、もはやそんな時代は忘れたので、本書の正確な読解は無理ですね。ググればある程度は何とかなるけど。というわけで、本書の内在的な理解はほかの方にお任せして、素朴に外在的に眺めてみましょう。もちろん、公正中立な立場なんか表明しません。同書中の関心を持った一部をとりあげて、偏った独自の解釈を展開いたします。

なお、著者の立場としては文脈依存的な理解は気にくわないかもしれませんが、以下では、近現代人(あるいは前近代人)にとってはある程度わかりやすくなるので便宜的に通時的・外在的な説明というか読解を試みます。いまだに膨大な紙の書類と印鑑を使っている口先だけの近代どころか前近代の業界からお届けすることは本当に心苦しい…

◇◇◇

目次

  1. デジタルネイチャーとは
  2. デジタルネイチャーの形成過程と完成形について
  3. デジタルネイチャーの理論的難点について

◇◇◇

1 デジタルネイチャーとは

デジタルネイチャー計算機自然計数的自然とは、最も簡潔な定義でいえば、物理世界と仮想世界との融合です。サイバー・フィジカル・システム(CPS)の円環的概念より進んで、主としてサイバー側の高解像度化によって2つの世界の境界自体を消去することに主眼が置かれます。この「高解像度化による境界の消去」という視点は、同書の中核的主張として、かなり徹底的に貫かれています。帯にある「十分に発達した計算機群は、自然と見分けがつかない」という一文は、まさにこの主張のスローガン的な位置づけといえます。同著者による『魔法の世紀』(PLANETS、2015年。以下「CM」といいます。)では、「人間の感覚の境界を飛び越えたメディア」、「一度人間の感覚器の写像によって縛られた制限を取り払う」、「私たちの感覚器程度の解像度にすぎない領域からコンピュータを解放する」などと表現されたりもしていました(CM175、178頁)。本書でも「<物質>と<実質>の垣根を突破するのは、〔…〕より高解像度の体験だ」(DN228頁)、「解像感が同一ならば両者の違いは、コンピュータによる体感の実装の有無に過ぎない」(DN167頁)などとして一貫した主張を続けています。

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境界とは、言葉、ネガティヴな項、シニフィアン(音響イメージ)という心的世界や認識論的枠組み、フレーム、カテゴリーのことです。このシニフィアンの集合を「象徴的秩序/象徴界/差異の網/コード/言語/法」などと呼んでいます。デジタルネイチャーにおける境界の消去は、脱構築による象徴的秩序の顕在化ではなく、端的に技術的実践による象徴的秩序(あるいは言語や形而上学)そのものの消去/破壊です。境界線自体を抹消してしまおうという、どことなく自己破滅的な試みであると考えられます(いわゆる死の欲動/タナトス。ジジェク・205頁参照)。「言語的理解に終始する近代的な思想やポストモダニズムでは理解不能な枠組み」(DN106頁)、すなわちラカン派の表現を用いれば現実界への到達の試みを意味します。厳密には、科学者のディスクールの極限と現実界への回帰(後に説明するように資本家のディスクールと一致することになります)を併走させる試みですかね。技術的実践を媒介して高精細の網の目を現実界として実現しようとするのです。この必然的帰結として人間(中心主義)は「死ぬ」ことになります。要するに、デジタルネイチャーは科学技術を駆使して通常の生の在り方とは別の生の在り方を模索する思想です。たとえその別個の「生」が従来の意味で生物学的な死であるとしても。いずれにせよ重要な点は、思索的展開よりも技術的実践が先行しているという点です。「本書ではイデオロギーは技術の発展の結果成立するという立場を取る」(DN41頁)。ただし、「信念なるものは〔…〕純粋に精神的な状態ではなく、つねにわれわれの現実的な社会的活動の中に具体化される」という意味で既に極めてイデオロギー的ですが(ジジェク・58頁)

2 デジタルネイチャーの形成過程と完成形について

とりあえず背景から説明しましょう。

同書中に記載のない前史は、わたしのほうで勝手に補完させて頂きます。

技術的基盤ないし社会インフラとしては、1985年頃から2015年頃までの約30年間に、通信領域におけるインターネットが劇的に発達し、それに伴ってエコシステム(特に金融関連領域)の形成が生じたことは周知のとおりかと思います。この過程において、思想的には、サイバー・リバタリアニズムを生じました。つまり、インターネットで展開されるサイバー空間でこそ我々は真に自由な活動が展開できるのだ、インターネットは国境を越える、政府の規制など及ばない世界を作るのだ、といった趣の世界観です。

サイバー・リバタリアニズム自体は、肥大化した福祉行政国家の裁量的規制による窒息(拙稿「正義論」参照)と現実世界でのアナーキズム化に対する失望の2点についての反動形成のようなものです。エリート官僚によるトップダウンの政策はことごとく失敗し、とはいえ途上国における自由主義/リバタリアニズムも失敗(アナーキズム化)してしまったことに由来する、一種のユートピア思想と思われます。もちろん、実際にはサイバー空間ほど人間のコントロールが及ぶものはないわけですね(レッシグ・4頁以下参照)。サイバー空間を支えているのはサーバーとかそこに置かれたソフトウェアとか人工的につくられた物理的実体/計算機であるからです。このような操作可能な物理的実体を計算機外まで敷衍して「アーキテクチャ」と呼ぶのでした。

ところが、最近では、サイバー・リバタリアニズムの思想自体を転倒させ、アーキテクチャ概念を逆手にとった考え方が生じました。つまり、アーキテクチャのポジティヴな面に着目した理解がとられるようになります(たとえば、水野祐『法のデザイン』(フィルムアート社、2017年)15-19頁参照)。場合によっては、法ではなくアーキテクチャによって行動の誘因や制約を設定・設計(デザイン)し、人間の行動を間接的にコントロールすべきだと考えられはじめたのです。アーキテクチャの特性として物理的次元/計算機は想像的イメージで遮蔽されているので、我々はアーキテクチャのカラクリに気づきにくくなります。たとえば、スマートフォンやそのアプリの仕組みなどを理解できる人は多くありませんから、それは見方によってはブラックボックス的な意味で「魔法」、「その作用を目にしたときに、原理を人々に意識させないもの」、「無意識性」であり(CM21頁)、エンジニア/技術者(のうちのクリエイティヴな層)はいわば「魔法使い」の地位に置かれます。

さらに、同時に技術的に「高解像度化」が進むことによって、マス(「映像の世紀」)から個別(「魔法の世紀」)へと移行します。簡単に必要な点だけいえば、人間を計算機のほうに合わせる必要が低下してきたのです。「人間のあらゆる差異はパラメーターの問題に帰着する」ので(DN176頁)、何か欠損があれば計算機によって技術的に補完可能だと考えられるわけです。計算機の三大原則は、

  1. 入力・演算・出力の装置
  2. プログラム=命令+データ
  3. 計算機の都合と人間の感覚の相違

でした(矢沢久雄『コンピュータはなぜ動くのか』(日系BP社、2003年)13頁参照)。ここでは計算機の高解像度化=個別化によって第3番目の原則があたかも消失したかのような事態を生じます。計算機が人間に近似された結果として、人間と計算機が同じ地平に置かれることになります。人間は多様性(種々のパラメータ)を捨象せずに保持し続けることができるので、これを「コンピューテーショナル・ダイバーシティ(DN175頁)、「計算機的多様性」と呼ぶことができます。「個人を画一化しなくても、多様性が保てる」とされるのです(DN54頁)

CPSなどでは第1と第2の原則も計算機のネットワーク内部で円環的に行われますから、人間も計算機も円環的に系をなすことになります。そして、従来の見方を維持すると、人間-人間、人間-計算機、計算機-計算機といった3パターンの組み合わせが展開されることになるはずです。もっとも、著者の立場では、人間と計算機は等価物として扱われます。とりわけ、低解像度の自然言語を経由せず、高解像度の "End to End"(DN18頁)の回路、換言すれば「事事無礙(じじむげ)」という華厳経概念が借用される事象間ネットワークを経由するほど、人間と計算機の両者は接近します。「人間はデジタルネイチャーの世界においては、せいぜい計算機で処理されるアクチュエータであり、認知的なロジックを持ったコンピュータにすぎない」のです(CM185頁)。著者としては、端的に「プロテイン型コンピュータ」の一種と考えているかもしれません(DN92頁参照)。そこで、人間=計算機と置くと、計算機群による外部のない全体(生態系)=計算機自然(デジタルネイチャー)が構築されることになります。

このように、デジタルネイチャーは、個別最適化や非自然言語化を推し進めた高解像度の円環的な系をもってサイバー・リバタリアニズム、あるいは低解像度用モデルとしての無個性な原子論的個人を否定する=<近代>を否定するので、「個別最適な全体主義(DN145頁)、「幸福な全体主義」と表現されます。ここにいう「全体主義」は、計算機自然という全体に対する人間の従属性を意味します。「これまでの思想的な問題点は、人間に帰属し、意味論による対立構造〔※引用者注:正確には意味論より対立構造のほうが「論理的に」先行すると思われる=シニフィアンの優位性〕を常に作ってきた人間中心主義〔※引用者注:ここでは主として自然言語の意であると思われる〕であることに尽きる」(DN181頁)、「コンピュータがもたらす全体最適化による問題解決、それは全体主義的ではあるが、誰も不幸にすることはない」(DN221頁)。要するに、著者は全体最適化と個別最適化が同時に(厳密にはタイムラグが織り込まれているものと思われますが)達成されるものと考えているようです。ここでは、理論上は、前言語的なレベルで、各自が固有の享楽のモード(著者の表現を借用すれば「アート的な衝動」を持った状態)で存在することができます。このような「自然」は、後述のように、円環構造というよりもフラクタル状に展開されるリゾームに近いかもしれません。もちろん、これは将来的な完成形であり(いや、厳密には完成形は常に未完成な動的状態になるのですが)、これはこれでサイバー・リバタリアニズムとは逆の方向でユートピア的ではありますが、今後のデジタルネイチャー化の進行は間違いないでしょう。

3 デジタルネイチャーの理論的難点について

デジタルネイチャーには理論的に悩ましいところが多々あります。

まず、現実界が消去されるのかどうか。高解像度化という科学者のディスクール、つまり新たなシニフィアンを生産し続けることによって一見すると現実界が消去されるかのようですが(いわゆる「<物>の排除」)、このディスクールにおいては、現実界は抑圧された形で真理の位置にありますし、抑圧されたものの回帰がありますので注意が必要です。科学者のディスクールの構造上、現実界や対象aはむしろ確実に温存されます(我々は謎について何一つ知ることなく、謎はますます謎として確立され、ますます謎の解明をそそられる…)。これは、象徴的な大地に立つ限り、現実界という穴の周囲を永久に旋回し続け、そこに回帰できないことを意味します。しかし、そもそも著者は最終的にデジタルネイチャーを「自然」として、すなわち象徴的なものではなく現実的なものとして理解しています。「生態系」という表現を用いるのも、デジタルネイチャーを現実的なものとして理解しているからこそでしょう。著者がデジタルネイチャーの外部を認めないのも、人間中心主義(自然言語)を否定する結果として、計算機的秩序を象徴的水準ではなく現実的水準で捉えているからだろうと思われます(つまり、デジタルネイチャーの中では人間は全員、現実界に触れてしまって「死んでいる」、あるいは「精神病化している」ということになります。いや、無意識が露出したままの別の生にあるというべきでしょうか…)。要するに、仮に科学者のディスクールを象徴的地平で展開し続けるならばデジタルネイチャーは永久に完成しませんし、一時的にでも計算機的秩序の外部(たとえば、計算機を設計するエンジニア)を確保しなければ計算機的秩序そのものが成立しないのですが、著者の立場としてはこのような理解をとらないのでしょう。

そうなると、次に、高精細とはいえシニフィアンの生産(象徴界化)とシニフィアンの消去(現実界への回帰)を両立できるのかという問題が出てきます。この問題に対しては、高精細シニフィアンを現実的なものに還元する技術的プロセスを挟むことで両立できると考えるのでしょう。微細な網の目をシミュラークル的に現実界の中で創造するものと思われます。「理事無礙(りじむげ)」という華厳経概念を借用して表現される「コンピューテーショナル・フィールド」において、「現代の計算機資源を用いることで、それ〔※引用者注:世界認識のこと。つまり差異の網〕は外在化し、記述しうる」(DN89頁)。しかし、仮に自然言語を用いないとしても形式言語自体は技術的実践の過程で使わざるを得ないわけですから、共時的記号コードの一切を否定できているわけではなく、ここでは依然として計算機的秩序の外部、素朴な人間的意図、仮想化しきれない残余の問題を生ずるものと思われます。この問題は、たとえヒューマンインターフェースを工夫しようとも、ヒューマンインターフェース自体について成立します。

ただ、それでもなおデジタルネイチャーの内側の問題に過ぎないという考え方もできなくはありません。実際、デジタルネイチャーの着想ないしきっかけについて、著者は「電子回路の構造をフラクタル的に、そして再帰的に眺め始めたこと」、「曼荼羅と回路の相似形で都市を形作るようなこと」だとしていますから(DN229頁)、デジタルネイチャーは自身の外部を逐一取り込みながら時間的な運動を伴ってフラクタル状に展開することになるはずです。そう考えると、ここでは資本主義に対する批判への反論(「資本主義の失敗は資本主義によって解決される」)と似たようなレトリックが展開されることになります。「デジタルネイチャーの失敗はデジタルネイチャーによって解決される」わけです。すべての外部は既に内側に織り込まれている、すべての矛盾は既に想定されている…と。そして、むしろ「外れ値」こそデジタルネイチャー発展の原動力であり(DN189頁参照)、「腐敗」すればするほど、その内在的矛盾が深刻になればなるほど、デジタルネイチャーは計算機群を更新し、生き延びなければならないのです(ジジェク・84頁参照)。ここまで来ると、もはや科学者のディスクール(分析素:S/→S1→S2 // a)ではなく資本家のディスクール(分析素:S/→S1→S2→a→S/→…以下ループ)といえるもので、だからこそデジタルネイチャーには「AI+VC(DN57頁)と表現される資本家/投資家が必要とされるわけですかね。わたしは現代人なので、ここまでディスクール(言述)にこだわって本記事を記述してきましたが、著者としては「既存の言語的なロジックでの解決ではなく、〔…〕現象ベースでの解決を図るべきだ」ということなのでしょうね(DN152頁)

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ちょっとまだわたしの中で整理し切れていないところが多いので、書き直すかもしれません。

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