緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

インプット or アウトプット の問題?

本日は、刑法とはあまり関係がありませんが、インプット(基本書や予備本を読むこと)を重視すべきか、アウトプット(司法試験の過去問や演習書の問題を解くこと)を重視すべきか、という問題について考えてみましょう。私個人は、これについても「そんなのどうやったっていいじゃん。余計なお世話だ」と思ってしまうのですが、勉強方法を迷っている方がいらっしゃるようなので、一応、書いておきます。

◆万能な方法はない

インプット・アウトプットの対立が出ると、真っ先に「司法試験の過去問を解かないで、どうやって司法試験の問題が解けるようになるっていうんだ?」という反応が出るような気がしますが、とりあえず少し待ってください。当ブログでは頻繁に言及していますが、まずは目的ないし目標を明らかにしましょう。手段から入るのは誤りです。何のためにインプットするのか、あるいはアウトプットするのか、ということを意識しなければなりません。この記事の読者ごとに、目的・目標(以下、単に「目的」という。)は異なるはずです。仮に司法試験の問題を解くことが目的であったとしても、人によって直面している問題が異なるのではないでしょうか。あらかじめ断っておきますが、この記事では、延々とこのことしか言い続けません。インプット・アウトプット論争を期待していた方には申し訳ないですが、以下ではそういう話の流れにはなりませんのでご了承ください…。

よく言われるように、「基本書を読むこと(=インプット)によっては、基本書を読めるようにしかならない。問題を解くこと(=アウトプット)はできるようにならない」のは、それは目的を持たずに漫然と基本書を読むからです。「基本書を読むこと」を目的にしてしまうと、問題を解けるようにはならないでしょう。大学の講義も同じですが、「講義を受けること」を目的とするのであれば、いかなる能力も身に着けられないでしょう。達成すべき目的に対して実際の目的の設定を間違えれば、当たり前ですが、その目的は達成できません。ゆえに、目的意識が大切なのです。

人によって目的は異なります。あなたの目的を私は知ることができません。こういう法曹になりたいという明確な目的がある方もいらっしゃると思いますし、法曹にはならないけど法律を使いたいと思う方もいらっしゃるはずです。実務で法律を使うことを目的にする人もいれば、研究目的の人もいるでしょう。また、「司法試験の問題を解くこと」を目的にするのもけっこうですし、司法試験に通らなければ法曹にはなれないのですから、法曹志望者は、少なからずある期間はそういった目的で勉強をしなければならないでしょう。こういった目的が明確に定まることで、はじめて方法論の次元に移行できるわけです。目的がはっきりしないまま、方法論をあれこれ議論しても意味がありません。

もう少し、目的と手段の関係性について話を続けましょう。司法試験に合格する目的で司法試験の過去問を解くことは、司法試験の合格を目的に据える限りにおいて正しいことです。しかしながら、この手の主張をする方々は、たいていは個人の能力や目的の差異を軽視しており、とにかく一律に過去問を解けと根性論(これも方法論の一種ですが)をプッシュしています。実際、多くの人にとって司法試験の問題を解くことは目的の一つですから、一定の前提を満たせば、それで司法試験に通る場合が多いのかもしれません。それなりの問題量をこなす必要があることも確かです。ですが、それはオーダーメードな考え方ではありませんし、スマートな学び方でもありません。野球の初心者がプロ野球で試合をすれば、プロ野球選手になれるわけではないでしょう。それは甲子園出場選手くらいにしかあてはまりません。自分のレベルに合わせて、自分でトレーニング・メニューを考える必要があるのです。万能な方法などありません。最適な目的達成手段は、個人ごとに異なり、時間とともに変化してしかるべきものなのです。専属のコーチがいなければ、目的も手段も、自分で決めていかなくてはなりません。

◆硬直的な方法論のリスク

ところで、目的の設定は個人の自由ですが、注意してもらいたいことがあります。それは、上にあげたような「試験問題を解いてさえいればいい」という考え方には、根本的な問題があるということを認識してほしいということです。そういう方法を選ぶな、とは言っていません。その考え方にリスクがあるということを指摘しておきたいのです。簡単に言えば、それは、盲目的だということです。間違えないでほしいところですが、アウトプットがダメだと言っているのではありません。繰り返しますが、アウトプットは手段であって、目的ではありません。手段自体に良いも悪いもないのです。手段が具体的であるのに対して、目的は常に抽象的・観念的です。そして、目的だけが手段のよさを決めることができます。ここでは、「~をやっていればいい」という硬直的な方法論のリスクに注目していただきたいのです。上にあげた考え方には、目的を見失いかねない危険があります。しかも、一度、この思考に陥ると、人間としての魅力を失いかねません。

日本の民事訴訟の利用者満足度をご存知でしょうか?

日本の裁判は難しい司法試験に通った優秀な方々が運営していますから、きっと利用者の満足度が高いはずです。ところが、最近15年間に行われた調査の結果を見ると、なんと民事訴訟利用者のたったの2割程度しか満足していなかったのです。

司法制度改革審議会が民事裁判の経験者に対して2000年に行った調査では、訴訟制度について「満足」、「やや満足」との回答は、合計で18.6%しかなく、「不満」、「やや不満」が50.6%であった。また、2006年の第2回利用者調査でも、「満足」、「やや満足」という答えは、合計で24.8%しかなかった。民事裁判の利用者の満足度は高くない。

日本弁護士連合会│Japan Federation of Bar Associations: 第62回定期総会「民事司法改革と司法基盤整備の推進に関する決議」2011年5月27日)

仮に原告か被告の一方が敗訴するとしても、50%くらいの利用者は満足してもいいはずですが、その半分にも満たない数値です。これには様々な要因が考えられますが、要因のひとつには、裁判が何を目的としているのか忘れられてしまったことが考えられます。だって、民事訴訟の目的論って聞いたことないでしょ? 民事訴訟法学が、この問題を棚上げしてしまったからです。しかし、本当に目的を考えなくてよいのでしょうか? 目的を持たずして何を持って訴訟制度がうまく機能していると評価するのでしょうか?

たとえば、一部の裁判官はおそらく、自分の仕事は「判決文を書くこと」だとか、「和解をさせること」だとか、「多くの事件を処理すること」だと思っているのでしょうが、いずれも根本的に誤っているように思います。それらは手段であって、目的ではありません(このことを手段の目的化と呼びます)。民事訴訟本来の目的は、当事者の紛争を解決して、当事者に心の安泰をもたらすことではなかったでしょうか(さすがにこの目的に異を唱える人はいないですよね)。利用者、さらには一般国民を満足させられない訴訟に、いったい何の価値があるのでしょう。問題を解けばいい、事件を処理すればいいと思い込んでいると、本来の目的を見失います。あなたは事件を処理するだけの人間になりたいのですか?

また、現在、司法試験で問われ、あるいは、司法研修所で行われている教育の内容は訴訟実務です。予防法学的観点は抜け落ちています。外国企業との契約交渉(というかそれ以前に契約書の作成・審査)や、ジェネラル・カウンセルの役割、企業の内部統制・コンプライアンスリスク管理の問題などは軽視され続けています。弁護士の中には、バランスシートを読めない人も珍しくありません。最終的にどのような法律家を目指すのかを、もう一度よく考えてみてください。試験問題を解き続けても、それこそ試験問題を解けるようにしかなりません。あなたは視野が狭くなってしまっていませんか? 目的を分かってやっているのであれば構いません。ここでは、同じ方法であっても、目的を意識してそれを行っているかどうかで全く異なるのだということを指摘しておきたいと思います。同じ方法を使えば、同じ結果が出るとは思わないでください。人間は機械ではありません。

さらには、モチベーションの問題もあります。私自身は、上にあげたような試験問題だけ解いていればいいという考え方には共感が持てませんし、一市民の立場として、そうやって法曹になった人に事件を依頼したり、裁いてほしいとは思いません。刑法に関して言えば、なぜ刑罰が必要なのか(これはほとんど試験で出題されません)を考えたこともない人に刑事事件を取り扱ってほしくありません。刑法についてよく言われることに、「結果無価値論と行為無価値論の対立のようなことを勉強するのが法学の勉強だと思っているのは誤っている」というものがあります。たしかに、試験とはあまり関係がありませんし、机上の空論になるのもよくありません。同じようなことを主張する研究者がいることも事実です。しかし、たとえば裁判員裁判で、裁判員から「精神障害心神喪失となった者に対して、なぜ刑罰が科されないのですか?」と聞かれたらどう答えるのですか? 「なぜ死刑制度があるのですか?」と聞かれたら? これらはまさに、そういった理論的対立が影響するところです。しかも、一般市民である裁判員には噛み砕いて平易に説明しなければなりません。もちろん、これらは私個人の主観で、今あげたものは単に書いていて思い付いた例にすぎません。しかし、ここで言いたいことは、あなたが一般市民からどう見られるのか、どう見られたいのかということなのです。あるいは、別の角度から考えてみましょう。あなたはその目的のために努力する人に魅力を感じますか? そういう法曹がいたら尊敬できますか? これは、私の問題ではなく、あなたの問題です。ですから、目的を選択をするのはあなたです。人は、魅力を感じない目的に全力を尽くすことはできません。他人から与えられた目的に縛られるのも嫌なものです。仮にそれを避けたいのならば、あなた自身で、もっと大きな魅力的な目的を設定しなくてはなりません。伊藤塾では塾生に合格後の理想の姿から考えさせるらしいですが、もしそうであれば、もっともな考え方と言えるでしょう。

◆まとめ

ここまで来ると、インプットかアウトプットかという手段の問題は、わりとどうでもいいことがわかります。あなたの設定した目的によって、それらの手段をどのように使い分けるかということだけです。目的を達成するためにはどのような能力が必要か、現在の自分はどのような能力か、どうすれば目的を達成できるか、などを考えましょう。このとき、何をすればいいのかわからなくなって途方に暮れるのは、目的が不明瞭だからです。その場合には、まずは目的を明確化しましょう。これが一番大事な作業です。既に目的がある人は、定期的に目的を見直しましょう。次に、目的を分解して、具体的に何を達成すればよいのかを明らかにしましょう。そこまでやれば、自然とやるべきことが見えてくるはずです。決して、手段から考えてはいけません。

ここまで、一貫して目的が大事だとしか言いませんでした。私は、あなたがあなた自身の目的を達成することを応援したいのです。どんなに素晴らしい手段であっても、あなたが目的を達成できなければ意味がありません。

それでは~

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