こんにちは~
本日は、交通事故の話です。以前に書いた記事「犯罪って増えてるの?」では、犯罪統計を読むことの難しさを説明しました。今回も犯罪統計が出てきますので、批判的に読んでみてください。なお、犯罪白書掲載のグラフには余計なデータが入っていて見づらいので、この記事では、生データからシンプルなグラフを作成してみました。
◆交通事故とひき逃げ
(平成25年版 犯罪白書 第1編/第3章/第1節/1 から作成)
平成15年あたりまで交通事故の発生件数が増加しており、17年以降は減少傾向にあります。これは平成17年に、危険運転致死傷罪(旧208条の2)が新設され、交通事故が抑止された結果だと思われます。平成19年には、自動車運転過失致死傷罪(旧211条の2)が新設されたこともあり、現在まで交通事故の発生件数は減少を続けています。なお、平成25年には、自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律が制定され、翌年に施行されていますから、今後も交通事故の減少が続くものと予想されます。
交通事故でひき逃げをする確率を見てみましょう。だいたい1%~2%の間で上下していますが、これも近年は減少傾向にあります。やはり平成17年に危険運転致死傷罪を新設した影響が大きかったのだろうと思われます。
(平成25年版 犯罪白書 第1編/第3章/第1節/1 から作成)
◆交通事故に対する刑事罰の抑止効果?
あなたは批判的に読めましたか? ネタばらししますが、上の説明は、典型的な誤読です。事実は捻じ曲げていませんが、評価の仕方は完全にでたらめです。納得しながら読んでしまった方は、要注意です。データに騙されやすいタイプかもしれません。自分の見解に都合のいいようなデータしか目に入らなくなってしまうことを、確証バイアスと呼びます。まずは、みなさんにそれを体験してもらいました。
そもそも、「窃盗を除く一般刑法犯」の認知件数は、平成11年から増加し、平成15年でピークを迎えているということを思い出してください(→「犯罪って増えてるの?」参照)。この「窃盗を除く一般刑法犯」の認知件数は、交通事故を引いた概念だということも、再度、確認しておきましょう。そうすると、不思議なことに、まったく罪質の異なる別個の犯罪統計であるにもかかわらず、「窃盗を除く一般刑法犯」の認知件数の推移と「交通事故発生件数」の推移とでは、グラフの変化の仕方が似通っています。普通に考えれば、殺人や放火、強盗などの故意犯と交通事故の件数とは関係がないはずです。そうであるとすれば、これは、警察の捜査方針や事件処理手続などの「認知する側」の事情に何らかの変更があったことによる影響だと推測することができますし、あるいは、人口構造や経済活動の変化などの何らかの社会的事情が影響していたと見ることもできるでしょう。このように、いろいろと推測することができますから、ほかのいずれのパターンでもないことを、いちいち証明しなくてはならないのです。
法律による抑止効果があったのだという主張には、交通犯罪新設後の現在よりも平成11年以前のほうがひき逃げの割合が少なかったという事実が考慮されていません。そもそも、ひき逃げは当該犯罪新設と関係があるのかという疑問もあります(これまでに新設された犯罪は、ひき逃げを直接処罰しているわけではありません)。決定的には、次のデータの見落としが問題です。
(平成25年版 犯罪白書 第1編/第3章/第1節/1 から作成)
犯罪統計としては珍しく、安定した下降線を描いています。交通事故の死亡者は、ほかならぬ運転者自身であることが最も多いため、下降線となっている理由は、自動車の安全技術の進歩か、もしくは、自動車を保有しているが実際に自動車を運転している層が減少していることなどが考えられます。もっとも、これも正確なところはまったく不明です。しかしながら、少なくとも、交通事故を処罰する法律の整備が進められたから交通事故や交通事故による死亡者が減ったのだという考え方は、かなり疑わしくなりました。このグラフをどのように好意的に解釈しても、刑事罰による抑止効果と結び付けることはおよそ不可能です。
これ以上のデータ分析は私には不可能なので、実証面では、「交通事故を処罰しても、実は、抑止効果がないかもしれない」ということを指摘するにとどめたいと思います。
◆交通事故に刑事罰を科すべきか
1.刑法の目的
さて、交通事故に対する刑事罰の抑止効果があるかどうかが分からない段階で、私たちはどのような対策をとればよいのでしょうか? 現状において、データが不十分である以上は、理論的な方向から考えていくしかありません。
そこで、刑法の基本から考えてみましょう。
現行刑法の目的は、様々な議論がありますが、応報と抑止(一般予防)の2つであると理解するのが現在の多数説です(相対的応報刑論)。応報とは、犯罪の「反作用」であり、相対的応報刑論との関係で理解すれば罪刑均衡原則のことです。この意味では、応報は目的というよりも手段に近いと思います。他方で、一般予防とは、将来、別の誰かが同じことを起こさないようにすることです。つまり、刑法の目的とは、応報を上限とした将来の犯罪予防です。私自身は、このような考え方を必ずしも支持していないのですが、この記事では、とりあえず多数説の見解に立って論じてみましょう。なお、刑法は、悪い行為や悪い結果を引き起こしたことについて処罰することを目的としていないのだということを、ここで強調しておきたいと思います。あくまでも将来の犯罪予防が目的であり、刑事罰は手段にすぎません。
2.故意犯処罰の原則
刑法38条1項本文は、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」と規定しています。したがって、「罪を犯す意思」(これを故意と呼びますが)がない過失犯は、「法律に特別の規定がある場合」を除いて、原則として処罰してはならないことになります(38条1項ただし書。故意犯処罰の原則)。議論はありますが、交通事故は過失犯の側面が非常に強いので、ここでは交通事故を「過失犯」という扱いにしたいと思います(道交法違反の結果的加重犯という見方もできますが、結局は加重結果に過失を要求すべきことになるので、さしあたり論じる内容は変わりません。現在では、自動車運転死傷行為法に処罰規定があります)。故意犯処罰の原則に対する例外は、法律に特別の規定がありさえすれば過失犯を処罰できるという意味ではなく、特別の規定があったとしても、過失犯を処罰することには謙抑的でなければならないという意味です。
故意犯処罰の原則は、行為を自分の意思によって支配・コントロールできなければ、刑法で処罰しても将来の犯罪予防にはならないことを根拠としています。人が死亡するなどの犯罪の結果が発生しているからといって、自分でその行為や結果をコントロールできなければ、刑罰を科しても犯罪の予防にはならないという理解です。そして、過失犯の場合は、ヒューマン・エラーですから、人の意思によって行為や結果をコントロールできない場合だということができます。交通事故のケースで言えば、重大な死亡事故が発生することもあれば、まったく事故が起こらないこともあります。偶然に事故が起こらなかっただけだとも言えるわけですが、偶然に事故が起こってしまったとも言いうるわけです。そうすると、交通事故(過失犯)に刑事罰を科しても、結果の発生をコントロールすることができるわけではないので、処罰にはあまり意味がないことになります。だからこそ、これまで交通事故に対して科される刑は軽かったわけです。
このような考え方に対して、「いや、そもそも事故が起こるリスクを生じさせること自体がよくないのだ」との反論が考えられます。しかしながら、人間が生活する以上は、なにごとにもリスクはつきものです。リスクのない行為だけで社会は成立しません。もちろん、不必要にリスクのある行為を生じさせれば処罰による抑止がなされるべきでしょう(これを、危険犯と呼びます)。それでも、自動車運転のような社会的に有益な行為までも規制するべきではないと考えられるのではないでしょうか。自動車を使う以上は、交通事故は必ず一定確率で発生しますし、これは避けられないことです。リスクを考慮することも大切ですが、それだけに目を奪われて、社会的な利益を蔑ろにしてしまう可能性があることには注意が必要です。単なる交通事故を超えた飲酒運転や危険ドラッグ運転による事故については、なんとしても予防したいところですが、それならば、飲酒や危険ドラッグを禁止するだけで足ります。わざわざ交通事故という事象まで含めて考える理由はありません。そもそも、酩酊状態では自由意思が働きませんから(動機づけ制御の可能性がないので)、行為者の刑法上の責任を問えないはずなのです。原因において自由な行為という特殊な構成すらもとることなく処罰を肯定することには、やはり問題があると考えられます。
3.厳罰化の弊害
ひき逃げは今のところ増加していないようですが、交通事故に対する処罰化・厳罰化を続ければ、ひき逃げは次第に増えていく可能性があります。皮肉なことに、厳罰化するほど捕まった場合のデメリットが大きくなるので、ひき逃げのインセンティブが大きくなってしまうのです。これでは、事故発生時に直ちに救助すれば命が助かる被害者も助からなくなってしまいます。ここでは、もう一度、何のための刑罰なのかを考える必要があります。刑法が将来の犯罪を予防するのは、将来の被害者を助けるためです。ですから、刑罰によって被害者が助からなくなってしまうような結果を招くのでは、刑法としては本末転倒ではないでしょうか。
既に起こってしまった交通事故の被害者や被害者遺族の心境は、察するに余りあるところです。しかし、どうすれば同じような事故が起こらないかということを考えずに、その行為がどれだけ悪いかという観点から処罰を行おうとする方向性には否定的にならざるを得ません。刑法は、悪い人間を処罰することを目的とする法律ではないからです。たいへん心苦しいところではありますが、法律で人間の感情をすべて汲み取ることはできないのです。少なくとも刑法ができることは、将来の犯罪を予防することだけです。「悪い」と判断された人間を処罰することが、必ずしも将来の犯罪を予防することにつながるわけではありません。法律で人間をチェスのコマのように動かすことはできないのです。
難しいテーマでしたね…。ちょっと記事一つだけだと論じきれなかったかんじが否めません。また、考えてみたいと思います。
それでは~