こんにちは~
今日は、ようやく違法論の後編です。前編では、現在の結果無価値論と行為無価値論とでは、モラリズムの排斥という点において共通の認識を示しているということを説明しました。両立場とも、法益保護の思想に立脚しているのです。
記事がどうしても長くなるので、いくつか分割して投稿することにしました。今回は「後編その1」です(「後編」にした意味ない…)。「後編その1」では、結果無価値論と行為無価値論の思想的な相違点をもう少し明らかにしたいと思います。この相違点から、違法判断の構造を明らかにすることができるように思われます。いつも通り、大雑把に考えます。ゆるふわでいきましょう~
結果無価値論の理論的根拠は、①刑法は法益の保護を目的としており、ゆえに法益の侵害又はその危険の惹起を違法評価の対象とするべきであること、②違法判断の明確性を確保するため、客観的な事態に評価の対象を限定すべきであることの2点でした。これを物的違法論と呼ぶこともあります。
これに対して、行為無価値論の理論的根拠は、①刑法は法益の保護を目的としており、ゆえに法益の保護を目的とした行為規範の違反行為を違法評価の対象とするべきであること(その内実としての法益侵害行為又は法益危殆化行為)、②罪刑法定主義による一般予防論的考慮から、行為の時点における行為規範の事前告知を重視すべきであることの2点でした。これを人的違法論と呼ぶこともあります。
したがって、この2つの立場の相違を突き詰めると、法益の保護を達成する手段についての理解の相違に行きつくことになるでしょう。すなわち、応報に重きを置くか、一般予防に重きを置くかということです。刑罰の目的に関する理解の相違であると言い換えることもできるでしょう。一応、念のために注意しておきますが、どちらの立場からでも応報と一般予防は考慮されます(相対的応報刑論)。ですから、どちらの立場に立っても、実際の帰結については、それほど大きな差は出てきません。ただ、微妙なところで違いが出てくることは事実です。
対立している点をもう少し簡単に言えば、結果無価値論は「行為規範を提示しないからこそ」自由だと考えるのに対して、行為無価値論は「行為規範を提示するからこそ」自由だと考えるのです。前編で少しご紹介しましたが、結果無価値論の中には、刑法の行為規範性までも否定されないとする立場もあります。しかし、これは本来的には結果無価値論の思想と真逆の発想です。結果無価値論は、あくまでも事後判断で処罰範囲を画定するからこそ、事前の行為規制を排除でき、したがって自由が確保されるのだとする考え方のはずです(司法制度改革と構造は同じです)。さらに言えば、結果無価値論の立場を一貫させるには、罪刑法定主義を否定するほうがよいでしょう。現に、英米法では大陸法系の罪刑法定主義(Gesetzlichkeitsprinzip)は採用されていません。英米法における「法」とは、「法律 Gesetz」ではなく「判例 law」を意味し、法律に規定がなくても処罰できる場合があるのです(いわゆる判例法犯罪 Common Law Crime 。もっとも、現在では英米法圏でも判例法犯罪は批判され、たとえばアメリカの場合は、いくつかの州を除いて大陸法系の罪刑法定主義に近い原理を採用するに至っています)。
実は、刑法上の罪刑法定主義も、刑事訴訟法上の強制処分法定主義(刑事訴訟法197条1項ただし書参照)も、行政法上の法律の留保も、大陸法系の価値一元的な統制方法であり、根本的には同じ発想に基づいています。すなわち、公権力の行使について、事前に法律に規定を置くことで民主的なコントロール下に置き、同時に、国民の自由保障を達成しようとする発想に基づいています(民主主義及び自由主義)。本来は、裁判構造も価値一元的なトップダウンの思想(すなわち職権主義)で一貫させるべきなのかもしれませんが、日本の場合は、明治以来続いている刑法(主にドイツ法系)と戦後改正された憲法・刑事訴訟法(主にアメリカ法系)とで極端に原理が分裂していますので、ものすご---くややこしいことになっています(これについては、「民事裁判と刑事裁判の構造的な違い」でも説明しました)。
それではまた~
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