こんにちは~
本日は、規範論のところで説明した「構造言語学(記号学)」を使った刑法解釈手法をご紹介したいと思います。この前の記事は、だいぶ大雑把で抽象的だったので、けっこうわかりにくかったかもしれません。そこで今回は、図解を多用しつつ、基本的なところから考えていきたいと思います。
◆言葉はものの名前ではない
まず、「『言葉』とは何か」という問いからはじまります。刑法解釈の前提作業だと思ってください。言い換えれば、解釈対象の分析ということです。
言葉とは、一般的には、なんらかの客観的な実体に貼られた「ラベル」や「名前」のことをいうのだと考えられています(下図)。「名前」が「実体」を指し示すわけです。
たとえば、「りんご」という名前は、ある果物に貼られたラベルだと考えられるかもしれません(人によっては、スマホのほうを思い浮かべるかもしれませんが)。
そうすると、対立する言葉(とりわけ対義語をイメージすると分かりやすいですが)は、次のようなイメージでしょうか。
このように、言葉は、実定的な項(ポジティブな項)としてイメージされます。まず2つの実体に対応した言葉があって、それぞれが対立しているのだと考えます。たとえば、「生命」と「死」の対立です。「赤」と「青」の対立とかでも構わないでしょう。対義語でなくても、どの言葉でも成立するはずです。
ところが、構造言語学(記号学)では、そうは考えないのです。言葉は、ものの名前ではありません。まず「対立」や「差異」があって、そして言葉があるのです(ネガティブな項)。ここでは、言葉は実体を指し示すものではなく、関係を表すものとして把握されます。言葉とは、主観的又は間主観的に線引きされた恣意的な差異そのものなのです(言語の恣意性ないし記号の恣意性)。言葉とは、いわば、一枚の紙をはさみで切ったようなものなのです(下図)。
文字通り「線引き」の問題です。ヘレン・ケラーが理解した最初の言葉は "water" だったとされていますが、厳密に言えば、"water / non-water" だったわけです。意図しているのかどうかはわかりませんが、ビジネスの世界では、このようなブレイクダウンの手法は「ロジカルシンキング」と呼ばれて実務的に応用されています。
◆刑法解釈への応用
それでは、刑法の具体例で考えてみましょう。構造言語学の考え方によると、たとえば、「死(人の終期)」は科学的に証明できるものではありませんし、「正犯性」の内実を明らかにすることも原理的には不可能ということになります。なぜならば、「死」とは「生命がない」ことを意味し、「正犯」とは「共犯でないこと」しか意味しないからです。もちろんこれは、循環論法であり、トートロジーなのですが、これこそが言語の本質なのです。薄々勘付いているかもわかりませんが、国語辞典でぐるぐる言葉の定義を飛び回って「ナニコレ」ってかんじになったのはこのためなのです。主観的に線引きする以外に解決方法はありません。なお、たいていの場合は、国会で線引きされることになります。
言葉は「差異」によって成立しています。そして、特殊法律的な概念(故意、責任能力、正犯性など)は、日常生活で用いられないので、日常用語との「差異」を観念できません。それはつまり、その言葉の意味内容を特定することができないということを意味します。「窃取」くらいならば「欺罔」や「強取」などのほかの概念との差異が観念できますし、他の日常用語とも区別は可能です。これを一般的には文理解釈と呼んでいるわけですが、日常用語と対比不可能な「正犯性」などは、このような手法の適用が不可能なのです。『難解な法律概念と裁判員裁判』(法曹会、2009年)にあげられている「難解な法律概念」が難解である理由はこれなのです。
先ほど言語の「本質」と言いましたが、一般的には「表層」と呼んだほうがよいかもしれません。驚くべきことに、言語には「表層」しかないのです。言語は極めて巧妙に作られており、私たちはそれが「表層」だと錯覚するのです。すなわち、私たちは、「言葉は表層だ。それならば、言葉が示している内実があるはずだ」と思い込んでしまうのです。そうやって、ありもしない「実体」を追い求めて彷徨い続けるわけですね。
日本における法律とは、他者との関係性を規律するものです。債権は特定の他者に一定の行為を請求できる権利ですし、物権でさえ、物に対する排他的支配権です。権利とは、結局のところ、関係性の物象化・実体化にすぎません。「有価証券」などは、まさに物象化の究極の姿です。便宜的に、他者との関係性をモノのように扱っているのです。つまり、人間関係を「実体」のごとく扱うのですから、これを実体法と呼んでいるわけです。
このことは、刑法上の法益概念についても同じです。よく「法益の精神化」が批判されていますが、そもそも「法益」に物理的実体などありません。厳密に言えば、たとえば、傷害罪は、人を怪我させたから処罰するという論理をとっているわけではないのです。人を怪我させたことによって、他者との関係性(これを人間の尊厳や個人の尊重と呼んだりもしますが)を傷つけたから処罰されるのです。この意味で、法益の内容を物理的実体に限定しようとする見解は誤っているように思われます。
以上は、ひとつのものの見方です。構造言語学(記号学)と呼んだり、関係論パラダイムと呼んだりしていますが、これだけがものの見方というわけではありません。ですが、現代では、ひとつの有効なものの見方ですので、ものごとを多角的に検討したい場合には、ぜひ使ってみてください。
それではまた~
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▼関係論パラダイムに関しては、丸山圭三郎先生の新書ですかね…