緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

因果関係と客観的帰属

こんにちは~

今日のテーマは、因果関係論です。

◆何が問題となっているのか

行為結果と並んで、因果関係は刑法総論における客観的構成要件要素のひとつです。ですが、因果関係の話に入る前に、そもそも犯罪において、なぜ「結果が」要求されるのかを考えなくてはなりません。構成要件要素としての「結果」が不要であれば、「因果関係」が問題となることもないはずだからです。

結果に対して法的に否定的な評価を下す立場(結果無価値論)からは、結果がなければ違法と評価しようがないので、犯罪の成立に「結果」が要求されることは当たり前と言えます。しかし、行為に対して否定的な評価を下す立場(行為無価値論)からは、「結果」は必ずしも必要ではないはずなのです。

今回に関しては、抽象論の話をしているのではありません。過ぎ去った行為無価値一元論の議論をしているのでもありません。今回は、あくまでも現実の事案解決を想定しています。行為を違法と評価すれば足りるものを、あえて結果の発生を要求する意図はどこにあるのでしょうか? これこそが「因果関係論の」本質的な問題意識です(論理上、この問いは行為無価値論の立場から発せられます)。ここに注意が向かなければ、「危険の現実化」というマジックワードだけの薄っぺらい理解で終わりかねません。なぜ因果関係が問題となるのか理解が難しくなってしまいます。

刑法典の規定を見ればわかるように、構成要件は原則として既遂犯を想定しています。既遂結果が不要の未遂犯は、既遂犯の構成要件の修正形式であり、あくまでも例外的な扱いにとどまります(例外にしては、やたら規定の数が多いですが)。このように、原則として(既遂)結果を要求する趣旨は何なのでしょうか? その答えは、結果の発生によって、より危険な行為として当該行為の違法評価を強めることです。これを行為の危険性の(事後的な)確証の問題と呼びます(井田・講義116頁参照。行為規範の設定の問題と言い換えてもよいかもしれません)

そうすると、因果関係論は、処罰範囲の限定がひとつの目的であると言えそうではあります。「条件関係だけでは無限に処罰範囲が広がるから、因果関係論によって違法性が強いと認められる『相当な』範囲に処罰を限定すべきだということが問題なのだ」(相当因果関係説による処罰範囲の限定)と考えられそうです。あるいは、より規範論的な観点から、「予見可能でない事情からは行為規範を設定できないのであるから、規範違反行為としてより強い違法評価を加えることができないのだ」と考えることもできそうです。

しかし、結果無価値論の立場からすると、おそらく折衷的相当因果関係説よりも厳格な「具体的予見可能性」という過失の要件により責任段階で処罰範囲が絞られるので、そもそも因果関係論を処罰範囲の限定の問題として考える必要はないことになります(この意味で、結果無価値論者の危険の現実化説は、条件説と同じではないかという疑問はもっともですが、だからといって問題があるわけではないのです)。したがって、ある意味で因果関係論は、行為無価値論に固有の問題とさえいえるのです。

ですから、判例のように、結果的加重犯における加重結果に対する過失を不要としておきながら、因果関係論で山口先生(結果無価値論)の危険の現実化説を安易に引っ張ってくるのは避けなければならないことです。

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◆因果関係論は「因果関係」の検討ではない

(1) 判例における問題

以上のように、因果関係論は、場合によって責任段階にまで視野を広げることが必要になります。これは、問題意識が「因果関係の範囲」ではなく「最終的な処罰範囲」に置かれているからです。こうなると、立場によって論の展開がまったく変わってしまうので非常に面倒です。ということで、この記事では、やっぱり学説をバッサリとカットして、判例の立場から生じる問題についてのみ考えることにしたいと思います。

前述のように、判例は加重結果に対する過失を不要としていますから、因果関係で処罰範囲を絞る必要に迫られます。すなわち、行為無価値論の立場における問題がストレートにぶつけられることになります。判例の立場における因果関係の問題とは、結果の発生を理由として行為により重い違法評価を肯定できるかどうかという問題になるのです。この問題意識から、相当因果関係説や危険の現実化について考えていかなくてはなりません。

(2) 相当因果関係説と危険の現実化

一応、一般的な話にも触れておきます。分かっている人は飛ばしてください。

事実的因果関係だけを追うとすると、「風が吹けば桶屋がもうかる」方式で処罰範囲が無制限に広がりますから、方法論的には帰責範囲を絞ることになります。つまり、

因果関係 = 事実的因果関係(基本) + 結果帰属関係(限定)

ということになるわけです。もっとも、結果帰属関係を問えば必然的に事実的因果関係も考慮されますので、事実的因果関係を独立に考える必要はありません(山口・総論2版61頁参照)。したがって、

因果関係 = 事実的因果関係 + 結果帰属関係 = 結果帰属関係

となるので、因果関係論は「因果関係」の問題ではなくなります(日常用語としての「因果関係」のイメージから外れると言ったほうがよいかもしれませんが)

そして、ここでいう「結果帰属関係」を「結果帰属判断の相当性」と呼ぶか「危険の現実化」と呼ぶかは、ネーミングセンスの問題ですから、どちらでもけっこうです。いま折衷説をとっている人は、「相当性(経験的通常性)」を「危険の現実化」に名称変更すれば移行は終わりです。言い換えるだけです。3秒で移行は終わりです。論証を変える必要はありません。「そんな学説あるのかよ」と、お思いになるかもしれませんが、あるんですね、これが(井田・講義124頁以下参照)

念のため述べておきますが、大阪南港事件(最決平成2年11月20日刑集44巻8号837頁)を契機とした「相当因果関係説の危機」なる問題は、スルーしても差し支えありません。相当因果関係説の危機は、単なる相当因果関係説の誤爆ですから、適切に運用すればこの問題は生じません。相当因果関係説(というより折衷説)判断基底(判断の基礎事情)から行為者(の立場に立つ一般人)の認識しえない事情を除外することで処罰範囲の限定をねらったものですが、大阪南港事件のケースにおいて、認識しえない事情を除外することによって逆に処罰範囲が広がるという「運用上の」ミスを犯したわけです。これは、「結果帰属の相当性」と「結果発生の相当性(確率)」を混同したことが原因ですから、そうすると、とりあえず「相当性」を「危険の現実化」と言い換えておけば、このような運用上のミスはなくなると考えられますので、何も問題はありません。

結局のところ、判例を念頭に置いた場合の因果関係論の見解対立は、判断基底の問題が残るだけになります。そして、判断基底については、「事前判断と事後判断」のところで「基礎事情の範囲」の問題としてさらっとですが説明しました。ただし、判例は、「判断基底論」の場面と「危険の現実化」の場面とを区別していないように思われます。

長くなってしまったので、「判例の展開」と「まとめ」は次回に…

 

▼つづき(因果関係論【後編】判例編) 

▼以前に書いた記事です。ちょっと「はずしすぎて」微妙な内容ですが…

 

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