緋色の7年間

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故意と具体的事実の錯誤

こんにちは~

今回のテーマは錯誤論です。錯誤論をあっさりと考えてしまう人は多いのですが、犯罪の成否に大きく影響するので重要なテーマといえます。また、罪数処理も含めると、実は非常に難解です。

実務的には、錯誤論ではなく罪数論の絶妙な加減によって、刑法が運用されています。これは、錯誤論の学説があまり成功していないからなのですが、本来的には錯誤論で解決すべき問題だと思われます。罪数論は、一種の「後知恵」ですから、なるべくなら錯誤論で解決したいというのが学説の考えなのです。

ただ、学生にとっては、罪数論や量刑の話までいかないので、何が問題となっているのかさえ理解しにくいかもしれません。この記事では、とりあえず「錯誤論」の限度で、問題意識を確認してみたいと思います。

◆何が問題となっているのか

最近では、「故意責任の本質とは、規範に直面し、反対動機の形成が可能であったにもかかわらず、あえて行為に出たことに対する強い非難である」という論証は、かなり減りました。代わって、「故意とは、構成要件該当事実の認識・認容であるから、構成要件の範囲内の錯誤は故意を阻却しない」という論証が増加してきています。後者の論証は、前者の論証に対する批判(たとえば、佐伯・総論259頁など)から出てきたものらしいのですが、はっきり言って前者のほうがマシです。

後者の論証は、具体的事実の錯誤の問題意識を汲み取ろうとすらしていないことが問題なのです。「故意とは、構成要件該当事実の認識・認容であるから、構成要件の範囲内の錯誤は故意を阻却しない」のは当然で、ここで問題となっているのは、どこまでが「構成要件の範囲内」なのかということなのです。

現在の錯誤論は、もはや「Aさん」という認識の範囲内(具体的符合説)か、「およそ人」という認識の範囲内(法定的符合説)かで対立していません。かつては、「判例・通説」は法定的符合説(抽象的法定符合説)だとも言われていました。しかし、今ではもうひとつの法定的符合説(具体的法定符合説)が多数説の地位を占め、判例もこれに引き付けて考えられはじめています。なかなか学説のネーミングがややこしいことになっていますが、現在の学説の対立状況は下の図の通りです。

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現在の問題意識は、故意の認識の内容をどこまで抽象化できるのかという点にあります。もともと、錯誤論は、行為者に被害者に対する未必の故意すら認められない場合に、別の人に向けられた故意を一般化することで被害者に対しても故意があると言えないか、という考慮からスタートしました。つまり、結論の不当性に問題意識が置かれていたわけです。しかし、そもそも本当に結論が不当なのかどうか定量的なデータがあるわけではありませんし、仮に結論が不当だったとしても刑法には謙抑性や罪刑法定主義などがありますので、行為者に有利になるように考慮しなくてはなりません。そこで、次第に問題意識の置かれ方が変質してきます。故意の認識の対象と、実際の結果が生じた対象とを厳密に一致させられない(一般的な場合でも多かれ少なかれ認識にずれがある)ことはたしかなので、これをどのようにクリアするかに注意が向き始めたのです(山口・総論2版200頁以下参照)。言い換えれば、なぜ故意の対象と結果が生じた対象とが(一般的な場合でも)一致しなくてよいのか、どこまで一致させるべきなのかが問題とされるようになってきたのです。端的に言って、故意(の内容)の抽象化の問題です(井田・講義177頁では、「構成要件がどの程度の抽象化を許容していると解するか」の問題としています)

残念ながら、それなりの数の学説が問題意識について混乱しているという状況です。故意の抽象化の問題となれば、そもそもの故意の内容自体を問題にすることになるので、未必の故意の不存在を前提とすることは誤っているはずです。そうでなければ、「故意がないことを認定したにもかかわらず故意を認定できる」というダブルスタンダードになってしまいます。これまでダブルスタンダードにならなかったのは、問題意識が「結論の不当性」に置かれていたからです。「結論が不当だ→修正しよう!」という論理だったからこそ二重の認定ができていたのですが、現在ではこのような論理を採用することはできません。突き詰めると、錯誤の問題自体が生じないことになるはずなのです。具体的法定符合説は、客体の錯誤方法の錯誤を区別できないと批判されていますが、これは問題意識が異なるから当然のことです。本来の具体的法定符合説の論理においては、故意があるかないかだけが問題となるので、そもそも具体的事実の錯誤の問題は生じません。強いて言えば、故意が認められる場合を「客体の錯誤」、認められない場合を「方法の錯誤」と結果的にラベリングすることになるだけです(佐伯・総論261頁も参照。なお、山口・総論2版209頁以下では、上の2つの錯誤を区別できないとする批判に対して反論がなされていますが、そもそも反論は不要なのではないでしょうか)。このような意味で、もはや錯誤論ではなく故意の内容そのものが問題とされていると考えたほうがよいでしょう(「錯誤論は故意論の裏返し」とは、まさにこの意味ではないでしょうか)。

次回は、判例の展開から錯誤論の具体的な判断方法を考えます。

それではまた~

▼つづき


 

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