緋色の7年間

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マインド・コントロールと間接正犯(前編)

こんにちは~

花粉症がつらい季節になってきました…。何か効果的な対策はないものでしょうか…

マインド・コントロールと刑事事件

本日のテーマは、「マインド・コントロールと間接正犯」です。

ある検察官の話では、被害者などの事件関係者の様子が明らかにおかしいんだけど、なぜかどうしても供述してくれない、本人は「私は被害者なのではない」と言い続ける、というような現象が起こるらしく、このせいで被疑者の逮捕までに至らない場合があるそうです。そして、犯罪の実態が解明されるのは事件が大きくなってしまった後になってしまうケースが出てきてしまうのです。おそらく、これが実際の刑事事件との関係で現れる「マインド・コントロール」という現象のひとつなのでしょう。

宗教組織によるテロ事件からドメスティック・バイオレンス(いわゆるDV)に至るまで、「マインド・コントロール」に関する事件のスケールは様々です。しかし、様々な事件をひとくくりにしてしまうこの言葉の意味とは、いったい何なのでしょうか?

マインド・コントロール」というと、自分の命令通りに他人を動かしてしまう方法のことを思い浮かべると思います。字義的に「心を支配すること」ですから、動かされている人は自由な意思が奪われてしまいコントロールされてしまうのだ、というふうに思っている人もいるかもしれません。ですが、少し結論を先取りすると、現実のマインド・コントロールは、一般的な認識とはかなり異なるところがあるのです。

どういうことなのか、岡田尊司マインド・コントロール』(文藝春秋、2012年)を参考にしつつ、井田先生の行為支配説(正犯論)も取り入れて検討してみたいと思います。刑法上は、特に間接正犯の成立が問題となるケースで、マインド・コントロールを論じることになることが多いように思われます。ただ、基本的には「マインド・コントロール」という言葉は実務では使われていませんし、少なくとも法学としてはたいして研究もされていません。ですから、このブログであえて取り入れてみようと思った次第です。

なお、井田先生の理論を持ち出す理由ですが、結果無価値論による結果惹起原因支配説(遡及禁止論)などの正犯論ではマインド・コントロールという現象を捉えにくいこと、あとは井田先生の『講義刑法学・総論』が一般に流通してそうだということの2点です。そこまで深い意味はありません。

本記事は、あくまでも刑法理論にマインド・コントロールの実態を取り込もうとすることを意図したものであり、マインド・コントロールそのものについて論じようとしたものではありませんので、その点をご理解ください。

マインド・コントロールの実際と問題の所在

マインド・コントロールとは、いったい何なのでしょうか? 現実には、どのような現れ方をするのでしょうか?

岡田・前掲41頁によると、「マインド・コントロール」は次のように説明されます。

マインド・コントロール(心理的操作)とは、人の思考や感情に影響を及ぼすことにより、思い通りに行動を支配することだ。そこには、コントロールする側とされる側が必ずおり、両者の間には、対等とは言えない関係が存在するのが重要な特徴であるである。

つまり、支配者と被支配者との「非対等な関係」を特徴としています。コントロールされる側は、相手を絶対的に信頼しています。コントロールする側は、この信頼関係を意図的に利用するのです。このような意味で、マインド・コントロールは、「もっとも本質的な意味で「騙す」「欺く」ということに等価」であるとされます(岡田・前掲42頁)マインド・コントロールとは、騙しなのです。

人間は社会的動物であり、本質的に他者を必要とします。他者との信頼関係を失うことは何よりもこわいことで、利用されている人は「利用されている」という点を直視できず、見て見ぬふりをしてしまうというわけです。信頼を裏切りたくない、本当はこの人はいい人なんだ、と思い込みたいのです。信頼を寄せる対象は、多くの場合は、親、配偶者、恋人、先生、仕事の上司、教祖などでしょう。周囲からは明らかに搾取されているように見えても、本人はそう思っていないところにマインド・コントロールの本質があります

カルトに陥った人は、さまざまな理不尽さや矛盾を味わう。しかし、それを見て見ぬふりをする。理不尽さや矛盾と向き合い、グル〔引用者注:ここでは誇大な自己愛を持って支配的に振る舞う人のこと〕が特別な聖者だという前提を疑うことは、自分自身の存在の支えを危うくすることだからだ。グルを盲信し続けるしかない状況に陥っている。

(岡田・前掲54頁)

こうして、マインド・コントロールされた状態にある人の最大の特徴は、依存性であるとされます(岡田・前掲60頁)

ところで、間接正犯は、背後者が実行者を一方的に利用・支配するところにその本質がありますが、その基本類型として、

  • 意思支配型の場合
  • 直接行為に完全な違法性が欠如する場合

の2つがあるとされます(井田・講義447頁以下参照)。このうち、背後者が直接行為者の意思決定を大きく左右する立場にあるケースは「意思支配型」に含まれるのですが、ここに含めるかどうかの基準は「強制」の有無とされているのです(強制が加えられなければ教唆犯にとどまるとされます)。しかしながら、直接的な暴力的・心理的強制を伴わないようなケースには、マインド・コントロールが行われていると考える余地があるのではないでしょうか

マインド・コントロールを「行為支配」のひとつの形態と捉えるとすると、マインド・コントロールは正犯性のひとつの基準となりえます。もちろん、そもそもの価値判断としてマインド・コントロールを行う者に強度の犯罪主体性が認められないというのであれば、この限りではないわけですが、本当にマインド・コントロールの実態を踏まえてなされた価値判断なのでしょうか?

判例を見ると、「12歳の少年」や「12歳の少女」がその生活等を依存する親や養親に命じられて犯罪を実行しています(リーディングケースがみんな「12歳」なのは、共犯従属性と責任能力との関係が問題とされているからです)。このうち前者の判例では、実行者が臨機応変に行動しているところなどを捉えて「意思を抑圧するに足りる程度のものではなく」と認定して間接正犯の成立とは判断されませんでした(最決平成13年10月25日刑集55巻6号519頁)。しかし、上述のようなマインド・コントロールの実態からすると、やはり疑問が残る判断ではないかと思うのです。

この疑問について、テロリストの例ですが、次の説明を参考にすればよいでしょう。

テロリストたちは、一部の人々が考えていたように、催眠状態のような意識が狭窄した状態で、あやつられてそうした行動をしたわけではなかった。彼らは、自らの覚悟と決心のもとで、そうした行動をとっていた。

ただ、それは彼らがマインド・コントロールを受けていたことを、何ら否定する根拠にはならない。マインド・コントロールを受けたものは、自らが主体的に決意して自己責任で行動したと思うことが、むしろ普通だからだ。

(岡田・前掲13頁)

つまり、上の疑問を突き詰めると、「意思を抑圧」あるいは「強制」したことが間接正犯を肯定する基準になりえても、それがなかったからといって直ちに間接正犯の成立を否定できないのではないかということなのです。

このような疑問に対しては、いや「支配型共謀共同正犯」というのがありうるのだ、現に判例も共同正犯としているではないか、基準としては機能的行為支配と考えればよいのではないか、と考えることもできそうではあります。また、いや教唆犯でも正犯の刑が科されるのだから教唆犯として扱って構わないのだ、むしろここで教唆犯とならないのであれば61条1項の意味がなくなってしまう、と考えることもできます。

これらは、結局のところ「正犯」をどのように理解し、どのような意味づけを与えるのかという議論となってゆくように思われます。その際、マインド・コントロールの実際的な性質を気をつけなくてはならない、ということまでしか言えないのかもしれません。

不完全燃焼な気がしますが、次回は、間接正犯の判例の展開について、いつものように法学的な観点から追ってみましょう。

それではまた~

▼つづき

・参考文献

マインド・コントロール

マインド・コントロール

 

 

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