◆「採点実感等に関する意見」について
こんにちは~
今回は、司法試験の話です。
現行の司法試験制度では「出題趣旨」とは別に「採点実感等に関する意見」(以下、「採点実感」)なるものが公表されています。平成27年3月24日現在で、平成20年から26年までの採点実感が公表されていまして、受験生としてはこれを読んで試験対策をしましょうという話になるわけです(なお、採点実感の本来の想定読者は指導側である法科大学院関係者なのですが)。
ただ、受験生が過去のすべての採点実感を読むのはかなーりめんどうなので、このブログでは、(刑法に限ってですが)過去のすべての採点実感を体系的に整理して、ポイントをまとめてみたいと思います。皆様のお役に立てればと思います。
以前にも同様の記事を書きましたが、過去の記事を1年ごとに編集するのもどうかと思うので、新しく記事を追加していく方式にしました。その際、過去の記事の日本語的におかしいところやわかりにくいと思われた内容などを修正しました(まだ間違いがあるかもしれません。なお、文章の下手さは仕様です)。実質的には過去の記事の改訂なので、内容的に重複がありますが、あらかじめご了承ください。
※本ブログでは、「採点実感等に関する意見」を引用・参照するにあたって略記をします。たとえば、平成25年の採点実感の20頁であれば、「H25・20頁」と表記することにします。
◆総評のようなもの
「採点に当たっては〔…〕罪責に関する結論部分だけではなく,その結論に至る思考過程の論述を重視するものと」するらしいです(H20・16頁、H21・18頁、H22・20頁、H24・23頁)。しかし、近年の採点実感では、このようなプロセス重視をあまり強調せず、「①刑法総論・各論の基本的な知識と問題点についての理解の有無・程度,②事実関係を的確に分析・評価し,具体的事実に法規範を適用する能力,③結論の具体的妥当性,④その結論に至るまでの法的思考過程の論理性を総合的に評価することを基本方針として採点に当たった」〔番号・強調引用者〕(H25・25頁、H26・33頁)としています。
箇条書きにすると、
- 基本的な知識と諸論点についての理解の有無・程度(知識)
- 事実関係を的確に分析・評価し、具体的事実に法規範を適用する能力(事案分析)
- 結論の具体的妥当性(結論)
- その結論に至るまでの法的思考過程の論理性(論理)
ということになります。
簡単に言えば、①知識、②事案分析、③結論、④論理の4つが司法試験的に重要だという当たり前のことしか言っていません。このうち、間違えやすい点は、②の事案分析だとされています(H20・16頁。詳しくは、こちらの過去の記事をご覧ください)。
◆事案分析で陥りやすいミス
採点実感を読む限り、試験委員から問題点として最も指摘されているのは「事案分析」の能力の欠如です。ここで言っている「事案分析能力」とは、「事実関係を的確に分析・評価し、具体的事実に法規範を適用する能力」(H25・25頁)のことです。それはもう、おびただしい数の指摘の嵐です。
とりあえず、このタイプのダメ答案とは一体どのようなものかを列挙してみましょうか。まとめると、以下のようなかんじです(H20・16頁、H21・18-19頁、H22・20頁参照)。
- 単に問題文に記載された事実を羅列・転写しただけ
- 事実の持つ意味やその評価に触れていないか、またはそれらが不適切
- 自己の見解に沿うように事実の評価をねじ曲げる
- 問題文において主要事実が確定しているにもかかわらず間接事実の積み重ねによる事実認定を行うという誤り
- 法律論の論述のみに終始
- 結論を導くのに必ずしも必要ではない典型的論点に関する論述を展開
- 問題となり得る刑法上の罪をできるだけ多く列挙するだけ
◆具体的にどこでつまずくのか
刑法総論における「事案分析」について、具体的に考えていきたいと思います(次回は、刑法各論編を書きます)。
(1) 行為論:行為を分断しすぎ or 統合しすぎ
残念ながら行為の統合と分断の問題に関しては、ほとんど経験の多さによるところが大きく、これといって効果的な解決策はありません。なぜならば、多数説によると、行為とは、意思に基づく、あるいは、意思によってコントロール可能な社会的に意味のある態度(社会的行為論)ということになりますが、この「社会的な意味」という言葉が曖昧でどうしようもないからです。
一応、行為の抜き出し方について記述した基本書もないことはないですが(高橋・総論69頁以下参照)、明確な基準が打ち出されているとは言い難いです。私からも、せいぜい、行為を選び出す際には、行為者の意思・目的の一貫性や被侵害法益の内容の同一性に着目してくださいとしか言うことはできません。実際のところ、行為態様や客観的事実だけでは判断が困難なのです。
平成26年の試験では、作為犯構成にするか不作為構成にするか、正犯で考えるか幇助犯で考えるか、かなり自由度の高い事案が出題されています。後述しますが、どの行為を選ぶのかを考えることは大切ですが、どの行為を検討するのかを答案に明示することも大切です。
行為を分断しすぎのパターンとしては、以下のような指摘がされています。
「甲の行為を余りに分断的で細切れにとらえ,刑法的評価の前提となる甲の行為を的確に把握できていない答案」「甲のA方内での行動について,甲がカッターナイフの刃をBの目の前に突き出した行為は脅迫罪,甲がBに「静かにしろ。」等と言った行為は強要罪,甲がリビングボードに近づいた行為は,新たな別個の強盗(未遂)罪のように,事実のとらえ方が不適切な答案」(H20・16頁)
「同一の被害について,特段の問題意識を持たないまま複数の財産犯の成立を認める答案。例えば,80万円の送金行為につき,背任罪,横領罪,電子計算機使用詐欺罪のすべてが成立するとするもの。」(H21・19頁)
「記述の濃淡の付け方が必ずしも適当でない答案も見受けられ,刑事責任が実際上問題とならないようなささいな点を取り上げて延々と論述するものも少なからずあった。」(H23・25頁)
これとは逆に、行為を統合しすぎというパターンもあります。
「第1場面から第3場面に至る甲の行為が全体として1個と評価されるか否かについて,それを論ずる実益も明らかにしないまま,検討している答案」(H23・25-26頁)
「論ずる実益」とは、いったい何でしょうか。このあたりはよくわかりません。
行為が分断される場合は、前後する行為のいずれかについて明らかに犯罪が成立しない場合や、量的過剰防衛が成立しない場合(いくつかの判例のケース)などを言っているのでしょうか。
行為が統合される場合は、一連の行為として把握することで、行為を分断した場合よりも重い罪が成立することが十分にありえる場合あたりでしょうか。たしかに、ボコボコに殴る行為のうちパンチ一発ごとに暴行罪を成立させるのはナンセンスだと言えますが、かなり感覚的な判断にならざるを得ません。
このあたりは経験によるところが大きいのですが、学生は実務経験を積めるわけではないので、ここでいう「経験」とは、必然的に判例の読み込みということになります。量をこなすしかないパターンですね…(TT)
(2) 不作為犯
不作為犯では、①不作為の実行行為の具体的な内容と、②作為義務(保障義務)の認定が書けていないものとして指摘されています。
①について、不作為犯について、「どの行為を実行行為としているのか判然としない」(H26・34頁)という問題が指摘されています。この問題意識は、行為者が何らかの作為を行っている場合に、その作為自体を実行行為と考えているのか、それとも不作為の一事情と考えているのかという点に置かれています。ただし、この指摘は、必ずしも作為と不作為の区別を論じるべきだとしているわけではないことに注意が必要です。作為犯構成でも不作為犯構成でもどちらでも構わないが、何を実行行為と評価しているのかをはっきりさせてほしい、という趣旨でしょう。
なお、人の生命に関する法益の罪が問題となるケースでは、「嘘をつく」「その場を立ち去る」「隠す」「移動させる」「救命行為とは言えない作為を続ける」など、当該作為だけを切り取って観察すると一般的には被害者の生命に直接的な危険性がないと考えられるような事情があれば、不作為犯を検討するほうがよいでしょう。逆に言えば、作為犯として検討するのは、「ナイフで刺す」「鉄パイプで殴る」「拳銃で発砲する」「車で引きずる」など、当該作為自体に生命に対する危険性があると考えられる場合です。
「甲の母親から電話で訪問したいと言われたが,嘘をついて断った点につき,作為による殺人罪の単独正犯としての実行行為と認定するか,作為による殺人罪の幇助行為と認定するか,見て見ぬふりの不作為犯を犯している間の一事情と認定するかはともかく,その成立要件に事実関係を的確に当てはめて結論に至ることが求められる。」(H26・33頁)
②の作為義務の認定について、いわゆる不真正不作為犯の問題は、作為義務(保障人的地位)の認定において、様々な事情を拾って適切に評価できるかどうかが重要です。採点実感で指摘されている点をまとめると以下の通りで、これをチェックポイントに流用すればよいでしょう(多少、内容が重複しているのは気にしないでください。これは原文のニュアンスを重視したことによります)。
- 第一次的な看護義務は誰にあるのか(被害者が患者→病院側)(H22・20頁)
- 複数の具体的な事情を詳細に検討(H22・20頁)
- 作為義務、救命可能性及び故意について、それぞれの時間的先後関係を意識して検討(H22・20頁)
- どの時点まで救命可能性があったのかが重要(H22・21頁)
- 既に救命可能性が失われた時点で作為義務や故意を認めるのはアウト(H22・21頁)
- 不作為犯ととらえた場合の作為義務の内容(H22・20頁)
- 「被害者の妻→民法上の扶助義務」のみを指摘するのでは不十分(H22・21頁)
(3) 因果関係
採点実感で指摘されているのは、
- 因果関係論の具体的な適用方法のミス
- 不作為犯の因果関係の特殊性
- 過失行為の後の故意行為の介在の認定・検討
の3点です(H22・21頁、H26・34頁)。
このうち、③は注意するだけで解決しますから、チェックポイントに入れておくだけで対策できるでしょう。
①の因果関係論(危険の現実化)の具体的な適用方法について、以下のような指摘がされています。
「因果関係の有無を判断するに当たっては危険の現実化という要素を考慮するという見解を示しているものの,当てはめにおいて,危険と結果のいずれについても具体的に捉えていない」(H26・34頁)
この指摘の前提となっている事案は、簡単に言えば、「甲の実行行為によってAが脱水症状や体力消耗により死亡する現実的危険が生じた後,乙の故意によるAを連れ去る行為やタクシーの運転手の過失による事故という事情が介在してAが脳挫傷により死亡した」(H26・33頁)というケースです。つまり、「危険の現実化」の判断は、「行為の危険性」と「発生した結果」の死因の同一性が基準なので(井田・講義132頁)、この事案で「脱水症状や体力消耗により死亡する現実的危険性」が「脳挫傷で死亡するという結果」に現実化することはありえないわけです。
思考の流れとしては、まず実際の死因が何かを明らかにした上で、その死因が当該実行行為の危険性に含まれていると言えるのかどうかを考えます。仮に死因が実行行為の危険性に含まれると考えるのであれば、なぜそう考えるのか、具体的な事実を評価しなければなりません。上の事案で因果関係を肯定するのであれば、「被害者が乙に自動車で連れ去られること」を誘発するような要素と、自動車が事故に遭う要素の2つが最低限、甲の実行行為に含まれていなければなりません。また、因果関係を否定するのであれば、この2つの要素がないことを事実関係に照らして指摘しなければならないでしょう(このほうが、あっさりと因果関係がないと書くよりも説得的になりますし、中止犯の成否を検討する前に因果関係の検討をスルーすることもなくなります)。
②の不作為犯の因果関係の特殊性に関して、因果関係論で不作為犯を特別に扱うのは個人的にはかなり疑問です(なお、山口・総論2版78頁も参照)。
不作為犯の因果関係を特別視する発想は、不作為犯における条件関係について条件公式をそのままあてはめられないという問題意識から生じています。しかしながら、近時の「危険の現実化」の判断においては、条件関係自体を独自に問題とする必要がないとも考えられるので(山口・総論2版60頁以下参照)、条件公式の適用で詰まることが観念しえない場合が出てくるように思われます。
ただ、不作為の因果関係については、一応、判例(覚せい剤注射事件。最決平成元年12月15日刑集43巻13号879頁)があるところですから、とりあえず当該判例に乗っかって「結果回避可能性」や「結果回避の高度の蓋然性」(殺人罪においては「救命確実性」)について、ひとこと触れておけば安心かもしれません。
(4) 過失犯
判例の立場からは「予見可能性に基づく結果回避義務の違反」を認定すれば足り、予見義務や結果回避可能性には触れなくても構いません(新過失論ないし新・新過失論)。
判例の理解については対立の激しいところであり、学説が錯そうしていますから混乱しがちです。そこで、一応、上のように理解できる理由を説明しておきます。
新過失論の立場からは、結果回避義務の違反(行為規範違反)を過失犯の本質と考えますが、結果回避義務が課されるためには結果の発生についての予見可能性がなければならないことになります(予見可能性の結果回避義務関連性。これをスライディングスケールで考えるのが危惧感説、新・新過失論で、具体的予見可能性に固定して考えるのが新過失論です)。予見できないものを防ごうとすることは物理的に不可能で、そうであるにもかかわらず行為者に結果の回避を義務付けることは犯罪の一般予防にとって無意味だからです。このような論理からすると、義務づけられるのは予見ではなく結果の回避であり、また、結果回避可能性は因果関係の問題に解消されると考えると、「予見可能性に基づく結果回避義務の違反」を考えれば足りることになります。
採点実感では、要件検討ももちろんですが、具体的な事実の認定と評価が大切だと指摘されています。そして、注意義務(結果回避義務)を認定する以上は、行為者は具体的に何をすべきだったのかということまで指摘しなくてはなりません。そうでなければ、何を義務付けているのかがわかりませんし、究極のところ、犯罪の一般予防にもならないからです。
ダメ答案として次のようなものが列挙されています(H22・21頁)。
- 過失犯の基本的な理論(予見可能性・予見義務、結果回避可能性・結果回避義務を内容とする注意義務違反など)について全く言及していない答案
- 行為者がそれぞれが担当する職務に応じて負担する注意義務の内容を具体的に特定していない答案
- 注意義務違反の当てはめにおいて、予見可能性や結果回避可能性等に関係する具体的事情をほとんど拾っていない答案
(5) 正当防衛
採点実感で特に多く指摘されているのは、防衛行為の「相当性」の要件です。ほかには、防衛の意思と攻撃の意思の併存(H23・26頁)や自招侵害(H23・25頁)、量的過剰(H23・26頁)あたりが抜け落ちやすいポイントのようです。非常に抜け落ちやすいです。とりわけ自招侵害は、正当防衛の規定からどうひっくり返しても出てこないので、さしあたり「急迫性」と「相当性」の2点に位置付けておけばよいと思われます(これについては、井田・講義277頁、288頁を参照)。
採点実感でも指摘されていますが、「正当防衛に関する近時の重要な最高裁判例及びそれをめぐる議論の状況等についての正確な理解が前提となる」〔強調引用者〕(H23・24頁)ことはたしかでしょう。なぜならば、違法性段階は利益衡量の段階なので、具体的な帰結を理論からストレートに導きにくいため、判例を参考にしていくしかないからです。
防衛行為の相当性については、次のような点に気を付ければよいでしょう。
- 侵害者がナイフを取り落としたとはいえ、その後も侵害者が攻撃の気勢を示し続けているにもかかわらず、直ちに急迫性が失われたとしてしまうのは好ましくない(「相当性」というより「侵害の継続性」ですが。H23・25頁)
- 同じ事実が「相当性」判断ではいかなる意味を持つのかについても明らかにすること(H23・25頁)
- 防衛行為の相当性を検討するに当たり、侵害者が既にナイフを車内に落としていることを踏まえ、防衛者としては、振り落とし以外にどのような手段を採り得たのか具体的に検討すべき(H23・26頁)
(6) 正犯と共犯
採点実感で正犯と共犯について指摘されている点は、わりと細かいです。細かいがゆえに、抜け落ちがちということでしょうか。
- 他者の行為を利用する場合には、間接正犯か共犯について言及すべき(H21・18頁)
- 共謀の認定の前に故意の認定を忘れずに(H24・25頁)
- 犯罪が既遂に達した後の関与等を根拠に共犯関係を肯定してはいけない(H21・19頁)
- 自ら発案し、自身も利益を取得していることなどを認定しながら、得られた利益が共犯者と比較して少ないことだけを理由に共同正犯ではなく教唆犯の成立を認めるのは好ましくない(正犯性の認定。H24・25頁)
- 共犯と身分の問題について、規範の定立をしっかり行うべき(H24・25頁)
また、このほかに、「幇助犯が成立するとしているものの,幇助の故意の内容が不正確」(H26・35頁)という指摘がありますが、これは、実はけっこう深くて難しいです。
この指摘の問題意識は、因果的共犯論(惹起説)に置かれています。つまり、因果的共犯論(惹起説)の立場によれば、正犯が最終的に結果を惹起していることが必須の要件となりますが、そうすると、狭義の共犯はこのことまで認識していなければならないことになるのです。別の言い方をすれば、狭義の共犯における故意は、正犯の実行行為(未遂結果)の認識では足らないと考えることになります。
したがって、故意とは、構成要件該当事実の認識・予見(あるいは認識・認容)ですが、これに対して幇助の故意とは、修正された構成要件に該当する事実の認識・予見(あるいは認識・認容)となり、具体的には、正犯に対する犯罪行為の促進及び正犯による既遂結果の惹起の認識・予見となるのです(たとえば、山口・総論2版319頁参照)。
(7) その他
ちなみに、こんなミスもけっこうあるみたいです。
法律用語の使い方の問題として,丙が最終的に不可罰であることについて,「無罪」と表現する答案が少なからず見受けられた。「無罪」は公訴提起された事件について判決で言い渡されるものであり(刑事訴訟法第336条),刑事訴訟法の正確な理解が求められる。(H23・26頁)
端的に、「犯罪は成立しない」と書けばよいでしょう。あくまでも実体法上の問題として考える必要があります。
総論編は以上です。次回は、各論編に移ります。
それではまた~
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