緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

リスク社会と過失犯(前編)

こんにちは~

今回のテーマは「過失犯」です。

結論から申し上げますと、現在の判例・実務(と司法試験)においては、過失として「予見可能性に基づく結果回避義務の違反」の有無を検討すればよいことになっています。予見義務結果回避可能性は、少なくとも過失の検討段階では問題にしなくても構いません。「行為者は~が発生することは(具体的に)予見できた。そうすると、それを回避する具体的な手段として~することができたはずである。それにもかかわらず、~しなかったのであるから『過失』が認められる」で大枠はOKです。

そのあとに因果関係を検討すれば、結果回避可能性についても検討したことになります。どうしても結果回避可能性を過失の要件の中に取り込みたいようであれば、「予見可能性及び結果回避可能性に基づく結果回避義務違反」ということにすると書きやすくていいと思います。予見可能性の程度は、判例があいまいにしているので答案で曖昧にしてもたぶん大丈夫ですが、とりあえず「具体的予見可能性」と書いておけば安心な気もします。ただ、「危惧感(抽象的予見可能性があれば足りる」とは書かないでください。最近の判例がそれに否定的な傾向だからです。

◆この世の不利益は誰のせい?

正直、過失の問題は、あまりとりあげたくありませんでした。なぜかというと、説明がものすごーく難しいからです。理論的な立場にもよりますが、過失というのは、結局、後知恵で「あのとき、ああしてればよかった」という論理構成ですから、どうとでも言えるわけです。刑法の犯罪の一般予防目的との関係で、非常にややこしいことになります(井田理論構造126頁では、このことを「応報的処罰の要請と規範による行動コントロールの要請とが悲劇的に分裂する」と表現している)

人間は不利益の原因がわからないと不安になりますから、基本的に「不幸な事故」というのを受け入れられません。そこで、その不幸な結果を答責されるべき「絶対的な主体」をでっちあげるわけです(フィクションとしての主体。ラカン派の表現を借りれば「大文字の他者」)。昔は、それが「妖精」とか「悪霊」とか「神」とかでした。「空から音がするのは雲の上で神が暴れているからだ」「家が揺れたのはポルターガイストがいたからだ」「地震が起きたのは地下の大ナマズが騒いだからだ」「道に迷ったのはきつねにつままれたからだ」などなど、あげればキリがありません。最近では「それは妖怪のせいですね~」と言い表されたりもします(妖怪の本質をよく示しています)。私たちは、「原因」があって「結果」があると思い込みますが、認識論的にはまったく逆で、「結果」から「原因」を構成するわけです。

そこで、現代社会では不幸な結果が「どこに」答責されるか。不幸な結果が答責されるべき絶対的なものとは何か。それは、「個人の自由意思」です(フィクションとしての自由意思。これを「自由意思の規範的仮設」と呼びます。井田講義358頁以下参照。ドイツのクラウス・ロクシンの考え方が源流か?)。すなわち、現代社会の価値観のもとにおいては、人々は不幸な結果を誰かのせいにしないと気が済まなくなります。で、事故に「近い」人々から答責されていくのです。たとえば、バスの横転事故だったら、運転手→勤務管理担当者→バス会社社長と、自動追尾弾のごとく、どんどん指揮系統を遡っていきます。つまり、「誰かのせいである」という結論ありき、というわけです。

こうして、誰かが「不幸な事故」について答責されることになるのですが、それを正当化する方便こそが「過失」という後知恵の論理なのです。これが、現象面から見た「過失」の正体です。

後編はどうしましょうかねぇ…(未定)

 

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