緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

日本人のための交渉術入門以前

こんにちは~

本日のテーマは「交渉」です。ロジャー・フィッシャー&ウィリアム・ユーリー*1による『ハーバード流交渉術』(原題 "GETTING TO YES")*2などの書籍でおなじみの「交渉」です。

たとえば、オレンジをとりあう姉妹がいて、交渉の結果として、①姉妹で半分ずつ分け合うパターンか、②中身と皮とで分け合うパターンか、みたいなかんじのあれです。この有名な事例では、実は、姉はオレンジの果肉によりジュースを作りたがっており、妹はオレンジの皮でオレンジピールを作りたがっているというオチで、それならば、後者②の解決がありえたじゃないか、という話でしたね。

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(※点線部は、分けるときの切れ目。姉は「A」、妹は「B」の部分をとる。)

 

…で?

そんなことは、少し頭のまわる方なら誰でもわかるわけです。単なるパズル問題にすぎません。日本人だって馬鹿ではありません。

しかし、残念ながら、実際にまともに交渉できる日本人は、ほとんどいません。弁護士でも、全体の半分もいないでしょう。上のような事例を字面で見る限りでは、こんなこと簡単じゃないかと思うわけですが、それにもかかわらず私たち日本人は、まったく交渉ができません。なぜならば、日本人は、この交渉段階より前の段階でストップしているからです。

交渉をコンテンツにした書籍は、基本的にアメリカの理論の輸入です*3。日本人のオリジナリティなんてゼロに等しいのです。日本人による書籍でも、ただアメリカ人の言っていることを、さも自分が考えたかのように書いているにすぎません。ここには、アメリカ人にとって当然であるけれども、日本人にとっては当然ではないことがごっそりと抜け落ちています。「交渉術」は、これを補完する必要があります。

先に結論を言っておきますが、日本人的には、次の3つのステップを頭に叩き込んでください。

  1. 自己主張しろ
  2. 相手方と交渉しろ
  3. 譲歩しろ

この3つのステップのうち、どれかひとつでも欠けていれば、自分が悪いと思ってください。自分の不利益になっているのは、すべて自分のせいです。

日本人の失敗の多くは、「自己主張をしないで不満をためるパターン」か、「自己主張だけして交渉や譲歩をしないパターン」の2つ(交渉しないことと譲歩しないこととで分ければ3つ)です。以下、各段階ごとに、ご説明しましょう。

1 自己主張しろ

自己主張してください。100%自分のための主張です。他人なんて気にする必要はありません。現代社会では、多様な価値観を持つ人たちと共生します。人種、信条、性別、社会的身分などなど、現代社会で生きる個人には、いろいろなバックグラウンドがあります。ゆえに、あなたの主義主張や価値観、道徳などは誰からも理解されないと思ってください。電車でとなりに座っている人間が何を考えてるかなんて知るわけないじゃないですか。ですから、あなたの心のうちを言ってください。言わないと誰にもわかってもらえません。

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(※ここにいう「一般交換」とは、文化人類学者であるモースやレヴィ=ストロースなどが指摘している「円環構造」としての一般交換と同じ意味である。日本において、自らが受けた「借り」や「恩」は、必ずしもその本人に「返す」ことは求められておらず、場合によっては見ず知らずの第三者に「返す」ということが起こり得る。)

従来は、「暗黙の了解」という言葉もあるように、「自分の考え=相手の考え」が成立する土壌が日本にありました。日本人は単一民族だからです。地域的に多少差異があるとはいえ、世界規模まで広げて比較すれば、文化は基本的に単一と言えます。自分の考えが相手に理解され、察してもらうということもありえたでしょうし、むしろ社会規範的にそれが要求されていました。これを「空気」、「」、「世間体」などと呼びます。他人のこころを読めない人間は、「空気を読めない(KY)」として嫌われます。日本法の中でも、「黙示の意思表示」という準規範的要件や、当事者の明示的意思表示がないことを前提に「当事者の合理的意思解釈」といった考え方が多用されていることを思い出してください。なお、日本だけでなく、イスラム圏などにも相手の気持ちを察するべしとの考え方があったりしますが、本記事では、便宜上、日本とアメリカの二項対立図式で説明します。

しかし、価値観が多様化した社会では、こういった従来の観念は "It's none of your business." (余計なお世話)として切り捨てられます。人々はお互いに「あなたの考えなんて知るか!」と言わざるを得ない状況に追い込まれるのです*4。ですから、しっかりと「自己主張」してください。どうせあとから譲歩することになるのですから、まずは他人なんて気にしないで自分の意見をすべて言ってください。

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「自己主張しないで不満をためるパターン」の典型的ケースは、小中学校のクラスの運営の仕方に対する不満です。ご立派な大人が揃いも揃って過去を振り返り「合唱コンクールとか体育祭とか、クラスの運営が不満だった。行事の練習を強制されるのは嫌だ。やりたい人たちが勝手にやればいいじゃん」とおっしゃられるわけです。

それじゃ、その人たちはその時その場でちゃんとそういう自己主張をしたんですかね?

しなかったんじゃないですか? だったら悪いのは本人です。あなたの考えなんて他人にわかるわけがありません。その時その場で異議を申し立てなかったということは、そういう意思決定をしたということです。自分の意見を言わない理由はありません。「手続保障」はしっかりなされています。ですから、その意思決定の責任は、自分で負わなくてはなりません。自分が無責任だからこそ、自己主張できなかったことに不満を覚えるのです。本来、不満を向けるべき対象は、日本の教育制度ではなく、自己主張できなかった己の弱さです*5。これは、アメリカでは当然に理解されているというか、アメリカ人にとって無意識に身についてしまっていることなので、「アメリカ産」である交渉術系の本にはほとんど書いてありません*6。非アメリカ人特有の問題です。ですが、自己主張は、交渉の大前提です。

なお、自己主張できなかったことについて、よくある言い訳に「どうせ言っても聞いてもらえなかった」というのがありますが、主張を受け容れるかどうかはあなたが決めることではありませんし、相手方に自己の主張を受け容れさせるように働きかけることがまさに交渉です。ここで自己主張して交渉せずに、いったいいつ交渉するというのですか? ここで自己主張して交渉しないのであれば、それは相手方の主張に全面的に同意してその意思決定につき全責任を負うことを意味しますから、あとから言い訳がましく「どうせ言っても聞いてもらえなかった」と言うのは無責任というものです。相手方に自分の主張を聞き入れてもらえそうにないことが予測されるのであれば、あらかじめ相手方の情報を収集し、それをもとに交渉材料をかき集めて、対策を立てておくべきだったのです。そして、相手が主張を受け入れる可能性があるかどうかの問題は、自己主張をするかどうかの問題と直接の関係はありません。現代社会においては、黙っていてもその人の主張なんて他人に分かるはずもないのですから、それを言わなかったことによる不利益は、当の本人が作り出したというほかないのです。

繰り返しますが、「自己主張の段階では」相手のことなんか考えなくてよいのです。相手のことを考えるのは、次の交渉段階以降の話です。

2 相手方と交渉しろ

上述した「自己主張」があって、ようやく交渉の段階に入ることができます。自己主張がないと交渉も何もありません。客観的に見て、交渉によって解決すべき事態が存在しないからです。その時その場で主張がないのは、相手方に同意したのと同義です。

しかしながら、日本人はここでも間違えます。自己主張するところまではできたとしても、他者とコミュニケーションがとれないのです。というか、考え方の異なる他者とコミュニケーションをとろうなどという発想を持っていません。なぜならば、自分と考え方の異なる他者がいるとは思っていないからです。みんな同じ考え方でなければならないと無意識に思い込んでいます。自分の考え方と反する相手の考え方を認めることは、直ちに自分の考え方を否定することを意味すると思ってしまうのです。他方で、自分の考え方に反する見解を一切認めなくなり、「交渉」ということを考えられなくなってしまいます。そして、自己主張だったはずのものは、いつの間にか相手方に対する罵詈雑言・誹謗中傷の類(いわゆる「憎悪表現ヘイトスピーチ」)に変わっていくのです。しかしながら、自分と異なる考え方の人たちを説得するからこそ交渉なのであり、自分の主張が唯一正しいと思って相手方の利害等を一切顧みない態度をとり続けることは、交渉でも何でもありません。

また、人によっては、相手方に自己主張を受け容れさせるためにその主張の賛同者を募ったりしていますが、いくら自分と同じような考え方の人たちを集めたところで、それは自分たちの内側で閉じている「自己主張」の域を出ません。問題は、その先にあります。自己主張自体は交渉における必須の前提条件ですが、「交渉」は、自己主張とはまったく別に、まったく別の論理(自分ではなく相手方のことを考えること)に基づいて行う必要があるのです。

典型的な失敗としては、デモ活動をやってみたものの、ロビイングなどの代議士(国会議員)とのネゴシエーションを一切行わなかったというケースです。ただ自己主張して騒いでいるだけで終わってしまうパターンです(そして、これまた交渉プロセスを理解していないほかの日本人から、交渉しないことではなく自己主張することのほうを叩かれるのです。余計なお世話なのですが)。本来、デモは交渉の一環をなす活動として極めて実効性のあるものです。東京都公安条例事件*7などの憲法判例でご存知とは思いますが、デモ(集団行動)は表現の自由、正確に言えば、集会の自由の一種であって、それ自体では「思想表明」としての意味しかありませんが、その後にロビイングなどを行うことにより実質的な効果(政治への影響)を生じさせることができます。しかし、日本では、この「ロビイング」という交渉段階が欠落しがちです。デモは、あくまでも自己主張の段階なのであって、交渉は別に行う必要があるのです。

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(※「ロビイング」=議会のロビーにおける活動とはいうが、基本的には、非公開の場で個別に交渉することが多い。水面下で行われるため、実際にどれだけの数のロビイングが行われているのか全体像を把握することは困難である。)

で、実際の交渉の仕方ですが、それは世に出回る書籍を読んでください。私の出る幕はありません。やり方もテクニックも、すべて書いてあります。強いて付け加えれば、交渉とは「情報戦」であるということでしょうか。これもきっとどこかの書籍には書いてあるのでしょうが、情報を持った側は損をしません(「パレート改善」されます)。

交渉段階は、以上。

3 譲歩しろ

えー、まことに心苦しいのですが、譲歩のない交渉は、実際上ほぼありえません。すなわち、自己主張のすべてが相手方に受け容れられることはないわけです。諦めてください。異なる考え方の人たちがたくさんいる現代社会で生きていく以上、あなたはどこかで妥協しなくてはなりません。

妥協せずに戦ってもけっこうですが、まったくもって合理的ではありません。他者との戦い(たとえば、戦争とか裁判とか)には多大なコストがかかります。マイナスサムゲーム、つまり、「敗者のゲーム」です。そういったゲームに参加する時点で「損」をしにいくようなものです。とりわけ、試行回数を増やせば増やすほど損は確実です。人間は、戦いを続けるほど疲弊します。そういう人生を送りたいのならば、どうぞご勝手に。ですが、私はおすすめしません。

裁判官が和解で落としたがるのはその裁判官の成績に響くからだとか言われたりしますが、これは実際の裁判官の意図とは異なります。当事者にとっても、裁判で戦うより和解のほうがいいに決まっています。賢明な人間であれば、あえて裁判で戦うようなことはしません。なぜならば、裁判を続けるほうが当事者双方にとって圧倒的に状況が悪くなるからです。裁判を続ければ、時間やお金などの様々なコストがどんどん増大してしまいます。しかも、これだけコストをかけたにもかかわらず、本当に自分がその裁判で勝てるかどうかはわかりません。負けたときのコストは甚大です。そんなことになるのであれば裁判なんか続けたくない、と思うのが普通です(裏を返せば、ずっと裁判になっている事件というのは、多くは、当事者の一方又は双方がそれでも裁判をしたいという何らかの特段の問題を抱えている例外的な場合なのです)。上場企業の法務部などは、裁判をやる愚かさ(というかコスト)を分かっているので、何が何でも裁判になることを避けます。これを「予防法務」と呼びます。これは国家であっても同様であり、他国との争いを、戦争ではなく外交で解決しようとしてきたことには合理性があるのです。

要するに、妥協し、譲歩するほうがあなたのためになるので、そうしてくださいということです。あなたは、譲歩しなければならないのではありません。譲歩したい(と思うことになる)のです。異なる考え方を持つ人間同士が一緒に生きていくためには、絶対に譲歩が必要なのであり、私たちは自らそれを求めるのです。

なお、残念ながら「自分の主張は正しいのであるから、譲歩なんてする必要がない」とおっしゃられる方が少なからずいますが、このような方々は、「異なる考え方の人たちがいる」という命題をまるで理解していません。いいですか、あなたの主張が正しいのは当然です。そして、その正しい主張と相容れない相手方の主張「も」正しいというのが現代社会の論理です。このことを「多様性」と呼んでいます。形式論理的には、両者の主張が同時に成立することはなく、オール・オア・ナッシングであるかのように見えます。しかし、現実の世界は、いわば二値論理ではないファジーな世界なのです。そして、両者の相容れない主張をフィフティー・フィフティー(理論上は「ナッシュ交渉解」)で折衷して何とか両立させようとする試みが交渉です。繰り返しますが、相手方との交渉が成立しなければ「戦争」になって、かえって自分にとって不利益になります。合理的に考えて、100%の自己主張を50%まで後退させる(=譲歩する)ほうが、相手方と「戦争」するよりも、確実にあなたの利益になります。それでも、あなたは本当に譲歩する必要がない、譲歩しなくてよいのだ、と思うのですか? 自分のしようとしている選択の結果を、よく考えてください。

4 まとめ

ということで、以下の3ステップは必ず守ってください。

  1. 自己主張しろ
  2. 相手方と交渉しろ
  3. 譲歩しろ

繰り返しになりますが、この3つのうちどれかひとつでも欠けていれば、自分が悪いと思ってください。自分の不利益になっているのは、すべて自分のせいです。

それでは~

▼たぶん関連記事(自己他者論的な)

 

*1:新版からは、ブルース・パットンが共同執筆者に加わっている。

*2:邦訳としては、ロジャー・フィッシャーほか(金山宣夫・浅井和子訳)『ハーバード流交渉術』(ティービーエス・ブリタニカ、新版、1998年)など。

*3:たとえば、ユーリー・前掲ⅱ頁「日本語版への序文」〔ロジャー・フィッシャー〕では、「アメリカ人がアメリカ人のために書いた本」だと明言している。

*4:このことを、瀧本哲史『武器としての交渉思考』(星海社、2012年)41頁では、「自分たちの世界の空気とはまったく異なる空気のなかで生きている他者と、一緒になって生きていかざるをえなくなった」と表現している。

*5:ユーリー・前掲297頁〔金山宣夫〕は、「日本人は「無我」とか「無心」を、宗教的に高度な精神状態と考え、その達成を説くことがある。なるほど文字どおり、エゴや意識を消去するのだとすれば大したものである。しかし実際には、部族的秩序に埋没して、真の自我や個が確立していないまま、そう説いているにすぎない。主体性がなく、タテマエとフルマイのあいだで揺れ動く状態を受け入れるために、みずから麻痺することを、「無我」「無心」といいかえているのだ。」とする。

*6:たとえば、瀧本・前掲64頁では、「2人以上の人間が集まったら、必ず交渉の必要が出てくる」としているが、日本人にとって、このことは必ずしも自明ではない。仮にこのような事態に陥った場合、交渉に至る前に相手方の気持ちを察して自己主張をひっこめる(ひっこめてしまう)のが日本人の性格というものである。

*7:最大判昭和35年7月20日刑集14巻9号1243頁。それによれば、「およそ集団行動は、〔…〕通常一般大衆に訴えんとする、政治、経済、労働、世界観等に関する何等かの思想、主張、感情等の表現を内包するものである。この点において集団行動には、表現の自由として憲法によって保障さるべき要素が存在することはもちろんである。」とする。

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