緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

なぜ官僚は無能に見えるのか?

こんにちは~

タイトルはいささか挑発的ですが、ほかに適切な見出しを思いつかなかったので、これにしてみました。テーマは、たぶん「官僚」です。

先にお断りをしておきますと、私個人は、官僚組織の中の人たちといくらか面識があったりします。彼/彼女らは非常に聡明であり、優秀です。人柄も優れている方が多いです。それでは、なぜ、このような非常に失礼なタイトルになっているのかというと、彼/彼女らが、どれだけ優秀であろうと、どれだけ人格が優れていようと、官僚組織全体としては原理的に機能しないようにできているからです。本記事では、このことを簡単にご説明いたします。

◆法律による行政の原理

官僚組織が機能しえない理由のひとつは、法治国家 Rechtsstaat として要請される「法律による行政の原理 Prinzip der gesetzmäßigen Verwaltung」の足かせです。官僚は、内閣を構成する国務大臣(行政庁/行政主体の意思決定機関)の補助機関として、三権のひとつである「行政権」に属します憲法65条・73条4号、国家公務員法1条2項)。この行政権の行使については、法治主義の建前上、民主的に制定された法律によるコントロールが及ばなければならないことになっています。簡単に言ってしまえば、これが「法律による行政の原理」です。極論すると、官僚は、法律によって決められたことを決められた手続に従って淡々と実施する機関にすぎないのです。基本的には法律によってがちがちに縛られているので(法律の留保)、自由に動くことはできませんし、自由に動けるようなことがあってはいけません。特定の個別具体的な政策目的の範囲を超えるような裁量の余地もあってはいけないのです。さらに言えば、あくまでも意思決定機関は国務大臣なので、その補助機関である官僚による「柔軟な現場判断」も簡単には行えません(法令及び上司の命令服従義務・国公法98条1項)

民間の方々としては、なんで官僚はあんなに動くのが遅いのかとお思いになるかもしれませんが、法律による拘束+大規模組織のトップダウンの意思決定構造により、官僚(というより行政)は、最初から意図的に「自発性」や「効率性」を封じ込められているのです。何かの公的な手続にいちいち書類が必要だったりしてそんな書類は無駄じゃないかと思ってしまうわけですが(実際に無駄なものもありますが)、基本的には「無駄」であるように見えてしかるべきなのです。仮に自発性や効率性を求めて官僚を「無駄な書類」はじめ法律の束縛から解放し、広範な裁量を与えるとすれば、それはもはや「法治国家」ではなく、いわば「人治国家」と呼ばれるべきでしょう。民間企業とは、この点が大きく異なります。ですから、官僚にああしてほしい、こうしてほしいと期待することは、最初から無理な話だということになります。少なくとも、国務大臣の補助機関である官僚に国民からの期待に応える権限はありませんし、法律で決められたこと以外はやってはいけないのです。

◆情報の相対的な不足

以上は法理論上の話ですが、官僚組織が機能しないことには、もっと実際的で根本的な理由があります。「法律による行政の原理」は、決定的な理由にはならないのです。というのも、よくも悪くも実際的には「法律による行政の原理」が徹底されていないからです。実は、「法律による行政の原理」は、これだけ重要な原理であるにもかかわらず、憲法上の根拠を欠きます。憲法学の教科書には「法律による行政の原理」が載っていませんし、行政法学の教科書では「権力分立主義の当然の帰結」塩野宏行政法Ⅰ』(有斐閣、第6版、2015年)77頁)だとして「法律による行政の原理」は所与のものとして扱われています。これは、おそらくは歴史的経緯によりアメリカ流の憲法とドイツ流の行政法とで乖離が生じてしまったからだと思われます。ですから、このあたりを理屈でぎりぎり詰めると、とてもめんどうなことになります。ふわっとしたまま放置されているので、「法律による行政の原理」が徹底されないということなのだろうと思います。そういうわけで、一度、法理論的なことは忘れてください。ここからは、もう少しリアルなほうに目を向けてみましょう。

日本の官僚は、何人くらいいるかご存知でしょうか?

人事院によれば、日本の国家公務員は約64万人です人事院ホームページ「公務員の数と種類」参照)。「国家公務員」の中には我々の持っている「官僚」のイメージに含まれない人たちがいますから、実態としてはもっと少ないと思ってください。そして、この「64万人」という数を多いとみるか、少ないとみるかです。ぱっと聞くと、こんなにいるのかという印象を持つはずです。しばしば指摘される人件費などの予算配分の観点から見ると、多いのかもわかりません。ですが、ちょっと見方を変えてみてください。

日本の総人口は、だいたい1億2000万人です。このうち未成年者を除くと、だいたい1億人くらいなのではないかと思います。どうでもいいですが、おそらくは「一億総活躍社会」といった政治的スローガンもここから来ているものだと思われます。そうすると、日本の成人の人口比で言えば、国家公務員の占める割合は0.64%くらいということになります(てきとーな概算なので、有効数字等は無視します)。すなわち、官僚の割合は1%未満だと思ってください。

そこで問題です。1%未満の優秀なエリート官僚が持つ情報の総和と、その他の日本の成人全員が持つ情報の総和とでは、どちらが情報の「質」が高いでしょうか?

要するに、この質問は、次の質問と本質的に等価です。

「専門家が書いた百科事典」と、「ウィキペディア」とでは、全体としてどちらを利用する人が多いと思いますか?

答えは、後者です。

興味深いことに、圧倒的な情報の量は、情報の質に転化します。最近、「ビッグデータ」が注目されている理由もこれです。要するに、さっさと結論を言えば、官僚には、圧倒的に情報が足らないのです。いくら頭が良くても、情報の不足は頭の良さでカバーしきれません。そして、この情報の不足は、現時点では、解消される見込みはありません。よく考えればわかることですが、解決すべき問題が発生している現場から遠く離れたところにいる官僚が、まさに問題の現場にいる一般市民よりも正確な情報を持っているわけがありません。私たちは、官僚に期待しすぎです。

なぜ、計画経済が破綻したのかご存知でしょうか? それは、計画していた人たちが優秀でなかったからではありません。計画を立てている彼らには、情報がなかったのです(たとえば、F. A. ハイエク(西山千明訳)『隷属への道』(春秋社、新装版、2008年)を参照されたい)。情報がない状態で政策を実施しても、失敗するに決まっています。そして、このような情報の相対的な不足は、いろいろな場面で見られます。普通の一般的な教室がそうです。小中学生や高校生を相手にする場合はともかくとして、ひとりの教授が大勢の大学生を相手にする場合、実は、学生全体のほうが良質な情報を持っています。このブログだってそうです。私ひとりが持っている知識や情報なんて、たかが知れています。これを読んでいるあなたのほうが、きっと良質な情報をもっていることでしょう。おそらく、このブログに対して「何言ってるんだこいつ。それは間違っている。こう考えるべきじゃないか?」みたいに思う人も少なからずいるはずです。対多数人を前提としたとき、原理的には、そういう人たちが絶対に出てくるのです。日本の官僚も例外ではありません。すなわち、官僚と比較して質の良い情報を持つ一般市民は、官僚に対して何かしら適切な批判を展開することが「原理的に」可能なのです。そういうわけで、官僚は、原理的に「無能」に見えるのです。

そして、ここで重要なことは、官僚に対して「無能だ」「現場を知れ」「当事者の主張に耳を傾けろ」などと言って批判をしても、たとえそれが適切な批判であっても、ほとんど意味をなさないということです。多数人を前にした相対的な情報の不足は、どうやっても解決しようがないからです。この問題を解決する方法があるとすれば、ただひとつ、官僚に期待することをやめ、正確な情報を持つ自らが責任をもって当の問題を解決する行動をとることです。お上依存、官僚依存はもうやめませんか? 官僚を無能だと言いながら、官僚に何かを期待し続ける態度をとることは、主張としての一貫性を欠きます。官僚が無能だと思うのであれば、自ら主体的に動くしかないのです。誰かが助けてくれる、誰かが問題を解決してくれると本気で思っているのですか? 正確な情報を持っているのは、あなたしかいないのです。ほかの誰でもありません。あなただけです。そのことをよく考えてください。困っている人を助けられるのは、実は自分だけかもしれませんよ?

それでは~

 

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