◆「マネジメント」とは
こんにちは~
本日のテーマは「ドラッカー」です。有名ですよね。閉鎖的な我々の業界でも、司法試験予備試験の一般教養科目の論述問題の素材にされる程度には有名です。書籍としては、『マネジメント』よりも『もしドラ』のほうが有名かもしれません。
しかーし、これだけ有名にもかかわらず、ドラッカーの「マネジメント」の定義さえ頭に入っていない方が多くいらっしゃるわけです。これは、おそらくはドラッカーが論理的に緻密な体系を構築することに積極的な意義を見出していなかったからだと思われ、結果として彼の著書で行間が多くなってしまったからだと思われます。とりわけ、断片的な文章をまとめた『マネジメント』などでは、その傾向が強いです。
そこで、「ドラッカー」という人物名はどうでもいいので、むしろ「マネジメント」の中身のほうを押さえてください。ドラッカーにおける「マネジメント」とは、①成果を生み出すことを目的とした ②情報を効率的に適用するための ③メタ情報のことをいいます。『プロフェッショナルの条件』では、「成果を生み出すために、既存の知識をいかに有効に適用するかを知るための知識」、「知識の適用と、知識の働きに責任をもつ者」、「知識の知識に対する適用」などと表現されています(P.F.ドラッカー(上田惇夫編訳)『プロフェッショナルの条件』(ダイヤモンド社、2000年)24-27頁)。後述しますが、組織経営論は、マネジメント概念の下位コロラリーを構成するにすぎません。個人か組織か、営利か非営利か、などは一切問わないわけです。この「マネジメント」の定義がすべてです。
それでは、この「マネジメント」概念が出てくる背景は、いったいどのようなものなのでしょうか?
◆「ポスト資本主義社会」
これについては、ドラッカー自身が述べています。彼が言うには、その思想的背景には「ポスト資本主義社会」があります(プロフェッショナル3頁以下)。「ポスト」というからには、資本主義社会からの移行とみるべき対象や、資本主義社会と対比すべき対象が念頭に置かれています。
では、その対象とは何か?
ドラッカーがまず着目したのは、生産活動に対して投入される「資源」の種類です。
資本主義社会では、資本家が生産手段を所有し、これを活用することによって利益をあげます。伝統的な用語法によれば、土地、資本(お金)、労働を「生産の3要素」と呼び、このうち物的な前二者を「生産手段」と呼びますが、現在では、「資本」や「資源」という用語がヒト・モノ・カネのすべての生産資源を含む包括的な概念として定着しています(ここにいう「ヒト」とは、労働力を意味します)。もっとも、「資本」という用語は会社法上の用語や会計用語などとの関係でいろいろ紛らわしいので(私が混乱するので)、本記事では「資本」ではなく「資源」という用語を使いたいと思います。要するに、「資源」というのは、お金はもちろん、土地(天然資源)とか工場とか機械とか工場労働者の肉体労働とかのことです。彼の生きていた時代(1909-2005・第一次世界大戦前~リーマンショック前)では、生産に投入されるのは、お金という資源や人的・物的な資源なのだと考えられていたのです。しかし、ここで彼は、これからの時代は、生産に投入される中心的な資源は、そういった「ヒト・モノ・カネ」ではなく「情報」になると主張するのです(プロフェッショナル24頁)。
この指摘を、もう少し実践的な言い方に直しましょうか。現在、バランスシートの借方/左側の「資産」(手持ちの会社財産)は、民法・商法等の近代的な民事実体法が規律する物権(の対象)や債権で構成されています。さしあたり、これらが「資源(お金を除く。)」だと考えてください。お金のほうは、貸方/右側に記載されていますが、とりあえず、この記事ではお金のほうの話(ファイナンス/資金調達の問題)は置いておきます(「計算書類で見る会社法」参照)。で、資本家とは、株式会社法上の用語で言えば「株主」のことです。そして、実質的には、株主が会社財産を所有しています(会社法105条1項参照)。ドラッカーは、バランスシートに記載されるような工場施設などの従来の会社財産を中心に用いた生産から、基本的にバランスシートに記載されない「情報」という無体・無形の資源を中心に用いた生産にシフトするのだと言っているのです。
こうして、ポスト資本主義社会への移行は、この「ヒト・モノ・カネ→情報」という中核となる「資源」のシフトとして捉えることができます。「知識が単なるいくつかの資源のうちの一つではなく、資源の中核になったという事実によって、われわれの社会はポスト資本主義社会となる」のです(プロフェッショナル27頁)。こうして、「ポスト資本主義社会」とは、情報が中核的な資源となる社会(情報社会)を意味することになります。
なお、現時点において、「情報」という資源は、基本的にバランスシートには計上されません。その結果として、EC事業を営む会社などでは、利益に対して資産総額が低めに算出されることになり、総資産利益率(ROA)が軒並み高めに出ます。もう少しやさしく素朴に俗っぽく言えば、たとえば、インターネットショッピングサイトを運営する会社においては、ググってサイトが1番目に出てくることとか、質の高い商品レビューが多いこととか、そういった無形の価値が会計上考慮されていないのです。しかしながら、このようなIT企業にとっては、土地や工場よりも「ググってサイトが1番目に出てくること」のほうがよほど重要である場合が多いはずです。この意味では、バランスシートは、いまだに前世紀的・近代的な資源しか念頭に置いていないものと思われます。突き詰めると、既存の近代的民事法自体が、現代社会(ポスト資本主義社会)に対応できていないとも言えるわけです。
◆知識労働者と組織
ポスト資本主義社会とは、情報社会です。したがって、この情報社会では、①成果のために焦点を合わせた ②高度に専門的な ③情報である「知識」を保有し生計の手段として活用する個人労働者(知識労働者)が大きな役割を果たします(プロフェッショナル29頁参照)。すなわち、情報社会とは、知識社会を意味します。
知識労働者が生産活動を通じて大きな価値を生むためには、効率的に情報を活用する必要があります。冒頭で指摘したように、ドラッカーにおける「マネジメント」とは、成果を生み出すことを目的とした、情報を効率的に適用するためのメタ情報をいいますから、知識労働者における効率的な情報の活用という考え方は「マネジメント」の定義にあてはまります。このことを、「セルフマネジメント」と呼ぶ場合があります。ドラッカー的な意味での「プロフェッショナル」とは、知識労働者においてセルフマネジメントができることだと言ってもよいと思います。
もっとも、個人が持つ情報は、断片的で不完全なものです。人間ひとりが持っている情報なんて、たかが知れています(「なぜ官僚は無能に見えるのか?」参照)。そこで、資本家は、情報を一か所に集積し、集積した情報を相互に有機的に結び付けようとします。ドラッカーは、これこそが組織なのだと主張します。彼は、「個々の専門知識はそれだけでは何も生まない。他の専門知識と結合して、初めて生産的な存在となる。知識社会が組織社会となるのはそのためである」と指摘し、「組織の機能とは知識を適用することである」と言うのです(プロフェッショナル31-32頁)。ドラッカーにおける「組織」とは、情報を有機的に集積・結合することによる情報適用機能そのものというわけです。そして、ここでも、その集積された情報を効果的に適用することが求められます。繰り返しになりますが、ドラッカーにおける「マネジメント」とは、成果を生み出すことを目的とした、情報を効率的に適用するためのメタ情報をいいますから、情報を集積した組織を機能させる情報は「マネジメント」にあたります。これが、ドラッカーの組織経営論の捉え方です。ドラッカーにおいて、組織のコミュニティとしての側面は、情報適用機能の反射的効果にすぎません。マネジメント概念もそうですが、組織概念においても目的志向性が非常に強いのです。
◆その後の世界
以上、ドラッカーの基本的な考え方を理解していただけましたでしょうか。
なお、一応注意を促しておきたいのですが、ドラッカーは、今日からすれば、生産者の観点で論じることが多いので、「顧客創造」というコンセプトが有名にはなっていますが需要者・消費者側の観点はそこまで多く描かれていません。ですから、彼の著作を読む際には、需要者・消費者側の観点を特に念頭に置くのがよろしいかと思われます。たとえば、ドラッカーにおいては「情報」と「知識」がほぼイコールのものとして扱われていますが、現在では、資源となる情報の担い手を知識労働者という生産者に限定する理由はなく、大勢の需要者・消費者が情報をもたらすことのほうが増えています。いわゆるビッグデータの中身も、もともと知識労働者の持っていた情報とは言い難いです。
また、別の注意点としては、人工知能の登場によりドラッカーの前提とする状況が様変わりする可能性があるということがあげられます。たとえば、ホワイトカラー(知識労働者を含む。)の多くが人工知能に置き換えられるなどと言われています。これは、大雑把に言えば、従来の知識労働者の保有する情報資源が、人工知能の収集するビッグデータという巨大な情報資源とそこから生み出される解析情報資源に代替され、知識労働者が脅かされるのではないかという認識として言い換えることができるかもしれません。圧倒的な情報の量は情報の質に転化しますから、今後の時代をドラッカー的な知識労働者が生き残れるかどうかはわかりません。
それでは~