1 訴因関連の問題
本日のテーマは「訴因」です。
なお、以下では「タテ」とか「ヨコ」とかいう表現が出てきますが、裁判所と審判対象との関係が「タテ」、審判対象をめぐる当事者間の関係が「ヨコ」という、ふわっとした定義で使っています(詳しくは「民事裁判と刑事裁判の構造的な違い」参照)。
弾劾主義の下、「訴因」(刑訴法256条3項参照)とは、検察官により弾劾の対象とされた犯罪事実をいいます。旧法における前法律的な歴史的・社会的事実の総体としての「公訴事実」とは異なります。刑事手続法でいうところの「訴因」と刑事実体法でいうところの「構成要件該当事実」とは、ほぼ一致すると考えてもらって結構です。
公判廷では、この訴因事実の存在をめぐって検察官と被告人・弁護人とが争うことになります(当事者主義。憲法37条参照)。というより、このような当事者同士の論争の前提として、訴因は、疑いをかけられている事実についての被告人に対する情報提供の役割(告知機能)を担うことになるのです。これを「告知・聴聞を受ける権利」と呼びます(判例の立場では憲法31条)。告知・聴聞を受ける権利は、行政法領域のほうでよく聞く言葉かもしれませんが、もともとは第三者所有物没収事件をはじめとする刑事事件が念頭に置かれています。要するに、訴因は「不意打ち防止」の機能を持っているのです。刑訴法領域の場合は、民訴法領域とは異なり、「被告人の防御の充実」という表現がなされることが多いように思われます。
無罪推定の原則からすれば基本的に検察官が訴因事実の存在につき全挙証責任を負うことになりますから、公判手続の流れとしては、まず検察官が裁判所(裁判官や裁判員)に対し「こういう証拠があるから訴因事実が認められるのだ!」というかんじでシナリオのプレゼンテーションを行い(冒頭陳述→論告)、次に弁護人が「被告人はやっていない!」というかんじの別のシナリオのプレゼンテーションを行う(弁護人冒頭陳述→弁論)という構図になります(ケースセオリーの帰結としての劇場型公判システム)。訴因関連の問題を理解する際には、このような手続フローを理解することが極めて重要です。というのも、訴因関連の問題は、手続的・時間的な推移によってダイナミックに変化するものであり、書面と「にらめっこ」してどうにかなるような性質の問題ではないからです。
もう少し具体的に見ていきましょう。話を単純化して理解しやすくするために、比喩的なイメージで考えてみます。刑事裁判において、「訴因」というものは、レール(手続)に乗った瞬間に「止められない機関車」になります。刑事裁判は、検察官個人が「止められない機関車」を裁量により発進させて(起訴独占主義・訴追裁量主義。刑訴法247条、248条)、リアルタイムに進行方向をコントロールし(訴因変更請求権。刑訴法312条1項)、ゴール(適切な有罪判決。刑訴法333条等参照)に向かわせるものです。被告人及び弁護人は「止められない機関車」を空から爆撃するなり、谷底に落とすなりしてそれを阻止します。以下、この「機関車」の比喩を用いつつ説明したいと思います。
訴因変更関連の論点としては、①訴因の特定、②訴因変更の要否、③訴因変更の可否、④時機に後れた訴因変更の可否の主に4つがあります。このほかにも⑤裁判所の訴因変更命令義務にかかる論点がありますが、実務上ほぼ使われないようですし、理論的な観点からして使うべきでもないので無視しても結構です。したがって、①訴因が特定しているか、②特定しているとして変更が必要か、③変更が必要だとして一般的に変更できるか、④一般的に変更ができるとして今変更できるか、という流れを押さえて下さい。
2 訴因の特定(訴因の概括的記載)
検察官は、訴追裁量主義(刑訴法248条参照)に基づき、公訴を提起する際に、どの機関車(訴因)でいくかを選択しなければなりません。このときに、選択の条件があります。第一に、それがリアルな機関車(訴因事実が具体性を有すること)であることです。描きこみが足らない空想の機関車では、弁護人が攻撃するときにターゲットがわからないのでダメです。第二に、その機関車には赤とか青とか他の機関車と区別できるほど、はっきりとしたカラー(訴因事実の識別可能性)がついていなければなりません。これは、弁護人がどの機関車を攻撃してよいのかわからなくなってしまうからです。これらは裁判所の立場から見ても同様に問題となる事柄です。この2つの条件をクリアしなければ、機関車を選んだとはいえません。条件を充足しなければ、「訴因不特定」であるとして公訴棄却判決(刑訴法338条4号)がなされます。実務上は、直ちに公訴棄却判決がなされるわけではなく、その前に裁判所の求釈明がなされるものと思われます。なお、事案によっては、このほかにも特殊な条件がついたりしますが、この記事では省略します。
【規範部分】訴因の機能は審判対象の画定及び被告人の防御の充実に求められることから、訴因が特定されていると言いうるためには、訴因事実の①具体性、②識別可能性、(訴因事実を詳らかにできない特殊事情、④訴因制度の目的を害しないこと)を要する。訴因が特定されていない場合には、裁判所は、公訴棄却判決を行う。
3 訴因変更の要否
訴因変更の要否の問題は、主として「タテ」の関係の問題です。裁判所が、箱庭を俯瞰して、検察官がレール上のポイントを変更しなくともその機関車が適切なゴールにたどり着けるかどうかを見ます。検察官としても、俯瞰したとき機関車が今どの位置にいるのかを考えることになります。訴因変更の要否の基準自体は裁判規範なのですが、反射的に検察官に対して行為規範として作用するわけです(民事訴訟法の世界ではこのような理屈をカッコつけて「プリズム」とか呼んでいます)。そして、もしポイントを変更しなければ谷底に落っこちるなぁと思われるような場合には、次の訴因変更の可否の問題に移行します。
【規範部分】訴因の機能は審判対象の画定及び被告人の防御の充実に求められることから、裁判所が当該事実を認定するためには、認定される事実が、①訴因の記載に不可欠な事項である場合には訴因変更を要するほか、②ⅰ不可欠な事項ではないが被告人の防御上重要な明示事項である場合には訴因変更を要する。ただし、この場合、ⅱ被告人の不意打ちにならず、かつ、防御上の不利益がないときには、訴因変更を要しない。
4 訴因変更の可否・時機に後れた訴因変更の可否
訴因変更の要否の問題が主として「タテ」の関係の問題であったのに対して、訴因変更の可否の問題は、主として「ヨコ」の関係の問題です。条文も判例も学説も旧法の表現を引きずっているため、はっきり言って、ものすごーーーーーーーーーくわかりにくいです。
要するに、被告人の防御の充実を図るという訴因の機能(ヨコの機能)からして、「公訴事実の同一性」を害しない限度(刑訴法312条1項)とは、事実概念ではなく機能概念であり(古江頼隆『事例演習刑事訴訟法』(有斐閣、第2版、2015年)224頁参照)、被告人の防御を害しない限度(被告人の防御にとり予測可能性の範囲内であること)をいうと解されるのですが(渥美東洋『全訂刑事訴訟法』(有斐閣、第2版、2009年)393頁参照)、日本語の表現として「事実」の「同一性」という旧法における「タテ」の視点(糾問・職権主義的観点)が入り込んでおり、これが理解を困難にさせています。結果的に、判例は、条文の文言と整合させるために両訴因の「基本的事実関係の同一性」という現在では「何らかの限定が加わる」という意味しか持ちえない旧法下の用語を流用することにより、判断をブラックボックスにしてしまっています。
このボックスの中身に関する争いには、決着がついていません。そして、たとえば、変更前後の両訴因事実が共通である(密接関係)とか、両訴因事実の共通性は低いが非両立である(択一関係)とか、一事不再理効ないし二重危険が及ぶ範囲とか、そういったよくわからない基準が出てくるわけです。「非両立性の基準」は位置づけ自体が問題になりますし、最後の基準は一事不再理効の及ぶ範囲を「公訴事実の同一性」の範囲と捉えればトートロジーになってしまい基準として機能しません。
(*A:密接関係、B:択一関係、C:併合関係。実線:攻防経過、点線:攻防なし。訴因変更の可否の基準は「実線か点線かの区別」にあるのであって、厳密には、A~Cの終着点が基準となっているわけではない。)
そこで、機関車の例で考えてみましょう。機関車の進行方向がたいして変わっていなければ、進行方向を予測していた弁護人にとっても何ら問題ありません。攻防にとっては誤差の範囲といえるでしょう。これが「訴因事実の共通性が大きい」という場合(密接関係。上図A)です。繰り返しますが、スタティックで平面的な理解だと後々意味不明になってきますので、注意してください。この段階から、時間的な要素を入れたダイナミックな理解が必要です。「共通性」というのは、基準というより、結果的にそうなるだけです。先に訴因事実の記載があって攻防の対象がそこに向かうのではなく、攻防の対象がずれてきたので、そのずれの先に訴因事実の記載を置くというか修正をするのです。論理を逆にしないように注意してください。変更後訴因の記載はある一時点の攻防対象を切り取ったものであり、それだけ見ていると攻防の過程が見えなくなります。両訴因事実の共通性が大きい場合は、別にスタティックで平面的な理解でも構わないというか、審理の過程を考えなくとも理解できてしまうのですが、次に見るように、このような「ずれ」が大きくなってくると意味不明になってきます。
他方で、機関車の進行方向が大きく変わった場合には、弁護人にとって想定外の事態となります。刑訴法では検察官がこのような方向性に機関車を振り向けることを禁止しているのです。これが「訴因事実の共通性がない」場合(併合関係。上図C)です。これも結果的にそうなるというだけです。検察官が「突如として」当初訴因事実と共通性のない新訴因に変更してみたというパターンです。
で、実際にそういうことをするような検察官はあまりいないわけで、現実には審理の過程で攻防の対象がずれてずれてずれてきてしまったようなケースで、かつ、そのずれ方としても当初訴因とまったく違うものになっているわけではないというケースです。こういうケースを「訴因事実の共通性が小さい」場合(択一関係。上図B)と呼びます。
つまり、実のところ、書類だけ読んで形式的に両訴因事実の記載を比較して共通部分を見つけ出しているわけではなく、審理過程(時間軸)を取り込んで結論を時間軸を捨象した「共通性」という表現に合わせているのです(すなわち、まったく同じ当初訴因及び変更後訴因でも、具体的な審理経過次第で変更が許されたり許されなかったりすることが理論上ありえます)。そこでこのような歪な論理を補うために持ち出されるのが「非両立性」という基準です。要するに、共通していないものを共通しているという結論に持っていくために編み出されたレトリックです。
よく考えればわかりますが、両訴因事実が両立しようが両立しなかろうが、共通かどうかの判断には何の関係もありません。仮に両訴因事実の共通性を基準とするのであれば、共通性が大きくない場合には訴因変更を許さない(上図でいうB・Cへの変更を許容しない)というのが論理的な帰結のはずですし、補充的な基準という位置づけもダブル・スタンダードであって理解不能な考え方です。それならば非両立性の基準一本で行けばよいわけで、実際にそういう刑事裁判官の見解などもあるわけですが、この見解は訴因の背景にある前法律的社会的事実を判断基準に取り込むものであって、実質的には「タテ」の視点で統一しようとするものであり、結局のところ、旧法下の公訴事実概念から脱し切れていないものと思われます。
原理・原則に戻って考えてもらいたいのですが、当事者主義(ヨコの関係)においては、事実は常に流動的です。それは、当事者が事実をコントロールするからです。そのような事実の「同一性」なるものを観念しうるとすれば、それはリアルタイムに進行する当事者の攻防過程の中で捉えるべきものでしょう。いかに「基本的事実関係」が同一であろうとも、被告人の防御を害するような変更を認めるべきではないことは、被告人の防御の充実を図るという訴因制度の趣旨からして明らかです。被告人の防御にとって重要な基本部分が変わっていないことを「基本的事実関係の同一性」と呼んでいると捉えるべきでしょう(どうでもいいですが、「国家刑罰関心の一個性」って少なくとも被告人の視点ではないので基準として論外じゃないですかね…弾劾主義と当事者主義の混同では…)。
結局、「非両立性の基準」というのはどのような理屈として捉えるべきなのかというと、「一本のレールにつき、あらかじめ分岐がわかっていれば、機関車がどっちに進んでいるのかわかる」ということです。これによれば、弁護人にとって不測の事態は生じません。「一本のレールが分岐していただけで、レールが二本あってレール間を飛び越えたのではなかった」というのが「非両立」です。裏を返せば、「レールを飛び越えた場合」が「両立」です。何度も言いますが、この判断には時間的な要素が入っていますから、単純に記載だけ比べてもよくわかりません。
こうしてみると、基準としては、当初訴因の記載に基づきつつ、具体的な審理経過から予測可能な範囲内の変更かどうかを考えれば足りることになります。刑事訴訟法学者の多くの見解は、「公訴事実の同一性」は機能概念だと言っておきながら全然そう捉えていないことに注意が必要です(個人的には、事実概念であることを否定しつつ基準に事実という言葉を持ってくるセンス自体どうかと思います。誰も疑問に思わないのでしょうか…)。なお、時機に後れた訴因変更の可否の問題では、高裁判例は、端的に被告人の防御上の不利益の有無を基準にしています。
【規範部分】訴因の機能には被告人の防御の充実が含まれることから、「公訴事実の同一性」とは、変更後訴因が特定性を有することを前提に、変更前後の両訴因の基本的事実関係の同一性をいい、①両訴因事実の共通性が大きい場合、又は②両訴因事実の共通性が小さいが非両立の場合には、両訴因の基本的事実関係の同一性が認められ、「公訴事実の同一性」が認められる。もっとも、訴因の機能は被告人の防御の充実を図ることなのだから、「公訴事実の同一性」が認められたとしても、公判手続の進行上、被告人の防御に著しい不利益を生ずる場合には、時機に後れた訴因変更として検察官の請求を却下すべきである。
それでは~