緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

これからさくっとてきとうに正義論の話をしよう――市場・国家・共同体

0.イントロ

本日のテーマは「正義論」です。一時期、サンデル教授の白熱教室で話題になりました。たいそうな名前がついていますが、法哲学(あるいは倫理学や政治学)の一領域をそう呼んでいるだけです。とりあえず「正義」の定義や、何の領域の問題なのかというところからしてとてもめんどうな(人たちから批判される)ので、これを棚上げして、いきなり内容に入ります。

1.リバタリアニズム

(1)基本的発想――「俺のモノは俺のモノ。邪魔をするな」

国家や共同体から干渉されないという意味での個人の自由(消極的自由)を極めて重視する見解が、リバタリアニズムです。この見解の主張者一般を「リバタリアン」と呼びます。素朴にそういう自由を信じる人たちもいますし(自然権的リバタリアン)、一般的には社会全体にとってプラスになるのだという観念的な計算ないし想定に基づいて個人に自由を付与すべきだと考える人たち(帰結主義的リバタリアン)もいます。いずれにせよ、この見解からは、個人の自由な意思決定やそれに対する自己責任の考え方、市場原理などが支持されることになります。M.フリードマンという経済学者の台頭以降は俗に「新自由主義/ネオリベラリズム」と呼ばれて批判されることもありますが、これは講学上の用語ではありません。この用語を使っている人がいたら、たぶんまじめに勉強していない人たちです(法学系の書籍でその用語を使っていた人がいたような)

最近ですと、ビジネス系(特に金融・コンサル業界)の人たちが、この立場を無自覚的に主張していることが多いように思います。ブロガーにもこのような見解に近いことを主張する人がかなりいます。学術的な世界ではともかくとして、現実の世界では、いわゆる「市場原理主義者」や「自己責任論者」、「拝金主義者」などと呼ばれる人たちが、リバタリアニズム(に近い見解)をとります。アドラー心理学(という心理学とは呼びえないユングと並ぶオカルト)にハマる人も、だいたい同じような主張をする印象を受けます。

(2)国家観――「……え、考えたことない?」

リバタリアニズムは、国家の役割の大きさに応じて、①古典的自由主義、②最小国家論、③無政府資本主義という3つの見解に分化します。番号数字が小さいほうにいくにしたがって国家が果たすべき役割が大きくなります。③は、国家や法制度自体に対して否定的な見解(無政府主義)です。②は、国家の役割を防衛・治安維持・裁判に限定する見解(夜警国家観)です。①は、「②+α」という見解です。「α」が何なのかは、つっこんではいけない。

学術的には②・③あたりは少数説ではないかと思いますが、現実の世界では③のような発想をする人たちをけっこう見かけます。自分のビジネスのことしか考えてない経営者とか、どこかの元社長とか。主としてインターネット関連技術(たとえば、プラットフォームやPOWシステムなど)の発展を根拠とするようですが(サイバー・リバタリアニズム)、それでもかなり机上論な感じが否めません。おそらくは、自分の半径5メートルくらい(比喩)の範囲しか見えていないので、国家作用(立法・行政・司法)のことなんて考えたこともないみたいなかんじなのだと推測されます。率直に言って、公益的発想に対して無知・無学です。これに対して、経済学者の多くは、①の見解に立ちます。本ブログのスタンスも、基本的には①の見解に近いですかね……繰り返すが、「α」が何なのかは、つっこんではいけない。

批判的に書いてますけれど、閉鎖的かつドメスティックかつリベラルな法律家業界がこの見解から学ぶべきことは、とても多いと思われます。

2.リベラリズム

(1)基本的発想――「世の中にはね、恵まれない人がいるんだよ?」

前述した消極的自由のみならず、主として経済的側面における国家による自由(積極的自由)をも標榜する見解が、リベラリズムです。各個人に平等な基盤・資源があってはじめて自由が保障されるのだ、と考えるわけです。いわゆる「二重の基準論」や「表現の自由の優越的地位」といった概念など、現在の憲法学における通説的発想は、この見解にかなり近いです。また、おそらくは法律家業界(特にベテラン~中堅層)の多数派・日弁連の主流・伊藤塾の憲法観であると推測されます。EU圏においては、社会主義の一種として扱われることもあります。

誤解が多いですが、NPOやNGOで人権保護活動などを行っている人たちは、リベラリズムではなく上述したリバタリアニズムです。リベラリズムの発想は民間の自発的な活動や自由市場に委ねていては何ら弱者救済や資源の平等・公平な分配、健全な経済成長などがなされないのではないかといった危機感を背景とするものですから、一市民が政府の計画・指導によらずに自発的に社会経済問題等に取り組んでいると評価できる場合には、リベラリズムにあたりません。また、現在の日本社会では、自由市場による自然発生的なルール(自生的秩序)よりも、政府の策定したガイドラインなどが基準として機能することが多いのですが、リベラリズムは、いわゆるデファクト・スタンダードよりも、こういったデジュール・スタンダードを志向します。

要するに、社会経済問題に対して官僚や有識者が実質的なイニシアティヴをもって企画・立案し、実行していくべきだ、とする考え方がリベラリズムなのです。ゆえに、次にみるように、国家の役割が大きくなっていきます。

(2)国家観――「肥大化する行政、増える赤字、平等に行き渡らない資源……」

リベラリズムの内容は主張者の見解にかなり依存するのですが、多くの見解は立法府・行政府に一定の裁量権を認めて部分的に計画経済・統制経済を肯定する立場であり、国家に対して積極的な社会福祉政策を要請します(福祉国家観)。これも誤解が多いのですが、現在の日本政府も、労働市場や金融市場などの自由市場に対する介入を大幅に肯定し、様々な場面で業法・政令・府令・省令・ガイドラインによる規制、行政調査、行政指導によって既得権益の保護・監督を行っているという意味では、講学上は「リベラリズム」にあたる側面があります。

問題は、国家の役割が大きくなると同時に、いわゆるハコモノが増えたり、財政赤字が増えたり、給付行政による実質的統制・癒着(天下り)・汚職が増えたりすることです(法科大学院とか)。無駄が増えますし、行政がつくった計画・基準(行政計画・行政立法)やそれに基づく判断(行政処分)に誤りや偏りがあれば(原理的に頻繁にあるんですけど)、人々に資源は平等に行き渡りません。規制が増えれば市場は硬直化し、長期的な実体経済の停滞を招きます。しかも、ご存じのように、立法府や行政府の判断について裁量権の範囲内である限り、事後的に司法が審査することは非常に困難です。ロースクール生あたりは、行政庁によってなされる処分に裁量があったり、行政庁が行政指導を行ったりすることは普通だと思っているかもしれませんが、以上のような問題を生じさせている元凶であることに注意を要します。

このように、理念の崇高さはともかくとして、現実的には国家の役割が大きくなることに多大な問題があります。そこで、現在の日本政府は、このような行政国家現象ないし行政の肥大化から脱却するため、上述したリバタリアニズム的発想に基づく規制改革(それを支援する司法制度改革を含む。)や、次に述べる共同体構成員の相互扶助に、その解決策を求めていくことになります。

3.コミュニタリアニズム

(1)基本的発想――「個人の自由がどうとか言ってないで、お互い助け合おう」

共同体構成員相互の関係を実質的に考慮し、共通善の秩序を重視する見解を、コミュニタリアニズム(共同体主義/共同体論)と呼びます。言いにくいので以下では「共同体論」と呼びますが、共同体論においては、正と善を区別しない「共通善」が重要な概念となります。簡単に言えば、共同体構成員が相互に暗黙的に了解している「善き生き方」のことです。たとえば、最近でしたら、「クリエイターは作品の外注や無料化によって名をあげるべきではない」みたいなのが、そのクリエイター共同体にとっての共通善にあたります。

このような「共通善」の内容について、その理解の方向性には2タイプがあります。①ひとつは歴史主義的な発想、すなわち、歴史的・伝統的・文化的な価値観を大事にしていこうぜという方向性と(歴史主義的共同体論)、②もうひとつは、そんな保守的なものに縛られずに共同体構成員がこれから決めていけばいいじゃない的な方向性です(卓越主義的共同体論)。サンデルは後者だとされるとかされないとか。

共同体論は、上述したリバタリアニズム的発想がアメリカで急速に普及した結果として深刻な格差問題を生じ、個人はアイデンティティを奪われ、家族共同体や地域共同体が崩壊し、衰退に向かっていく……といった背景があって出てきた考え方です。日本では、そもそも歴史主義的共同体論というか前近代的な村落共同体のような発想が強かったりするので(特に最高裁と検察庁と日弁連。あと学界)、今のところ、あんまり共同体論を主張する実益がありません。「法クラ」(法学系クラスタ)などといったように内輪で固まるので、むしろその内部的閉鎖性外部的排他性の弊害のほうが深刻です。日本の企業不祥事も、組織共同体(中間共同体)内部の共通善の秩序が法という外部秩序に優越してしまったことが原因で生じることが非常に多いです。監査が機能しないのです(某広告代理店とかね)

もっとも、最近では、主としてビジネス方面で粗悪なリバタリアニズムもどきのような主張をされる方が増えてきているので、今後、日本でもコミュニティの重要性が再認識されていくかもしれません。いかにリバタリアニズムといえども、共同体における暗黙的了解を完全に否定する生き方というのは実際上困難でしょう。また、リバタリアニズムにせよ、リベラリズムにせよ、個人と家族共同体との関係(特に生命倫理)の問題はどうやっても避けられないので、このような問題に対しては共同体論を参考にすることができるかもしれません。

(2)国家観――「だから全体主義じゃないって何度言えば(ry」

共同体論が国家をひとつの共同体と捉えるとき、国家における共通善の内容やその機能の仕方が問題となります。共同体からの同調圧力によって個人の自由意思が抑圧され、共通善に従った行動を強制されるようになれば、全体主義に接近するとも思われます。もっとも、共通善の内容自体は特定の人物が決められるわけではないので、全体主義とはちょっと異なります。不特定多数者の集団的暴力(俗にいう「炎上」、「隣人訴訟に対する社会的非難」)が向かってくるというのは別の意味でこわいところがありますが、その反面として、価値観の衝突が減少するので少なくとも見かけ上は穏やかな環境が形成されるはずです。昔の日本のようなかんじですかね。

他方で、国家という共同体の問題に還元するのではなく、国家や市場の存在を前提として、それらを補充する役割として別に共通善の秩序を位置付けることを考えることは可能です。この場合、リバタリアニズムやリベラリズムの限界を意識しながら、共同体論を援用していくということになると思われます。

以上、さくっとてきとうに正義論のお話でした~

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