緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

「フェイク・ニュース」と事実報道

インフルエンザが流行っているみたいなので皆様、お気を付けくださいませ…(どうでもいいですけど、「ファッションが流行」みたいな違和感が…)

本日のテーマは、「フェイク・ニュース」です。

フェイク・ニュースとは、読んで字のごとく内容虚偽の事実報道をいいます。何が問題なのかというと、誰かが意識的又は無意識的にSNSやブログ、あるいはニュースサイトを装ったサイトに虚偽の事実を記載したことによって、選挙結果や政治情勢、企業経営、個人の私生活などに対して多大な悪影響を及ぼすおそれがあるというところです。わりと多くのケースは、何らかの権威や人気のある「インフルエンサー」と呼ばれる人たちが当該情報を拡散するという過程を含んでいます。

米大統領選における特定の候補者に関する虚偽情報への批判や、米大統領周辺の方が alternative facts (代替的事実/他の選びうる事実)という表現を用いたことに対する批判などが社会問題化の経緯となっていたり、「フェイク・ニュース」というカタカナが用いられていたりすることからわかるように、この問題意識の社会的な形成は、基本的にアメリカ発であるといえます。日本では、SNSやブログ、ニュースサイトだけではなく、ネットで検索できる「見かけが立派なサイト」の情報についても、虚偽であることが問題視されました。たとえば、どことは申しませんが、医療・ヘルスケアに関する情報などです。

虚偽情報や信憑性の低い情報等の取扱いにかかる問題は、従来は「情報リテラシー」などと呼ばれてきた問題で、情報の受け手の能力の問題だと認識されてきました。いわゆる「バーボンハウス」が象徴的でしょうか。

これに対して、「フェイク・ニュース」の概念は、当該情報の送り手に問題意識を置くものです。日本の場合には、おそらくは「アフィリエイト」(ざっくりいうと、インターネット広告の掲載によってロイヤリティを得るビジネス・モデル)という本来はまっとうなビジネス・モデルの濫用が原因で、このような問題意識が醸成されているものと考えられます。このあたりは、アメリカ発の問題意識と若干ずれるような気がします。

もう少し具体的に説明してみます。まず、よくないアフィリエイターは、「クラウドソーシング」(ネット上の仕事の仲介業者)を経由して大量かつ安価に記事の執筆を発注して、それをそのままサイトに掲載するという方式を採用しています。たとえば、医療・ヘルスケア・美容・恋愛・ハーブティー、あとはクレジットカードあたりは、検索結果上位のサイトがほぼすべてアフィリエイトサイトです。とりあえず、検索してみればわかります。周囲には言いにくい悩み事系か、クレカ系の検索ワードで何かしらヒットします。たいていは記事の半分くらいがよくできたダミー記事であり、商品紹介ページ(たとえば、恋愛系なら脱毛とか)がうまく混ぜ込まれています。あとは、Facebook とかでよく流れてくる感動系コンテンツとか自己啓発・ビジネス系コンテンツとかは、皆様がんがんひっかかっていますが、基本的にすべて「おとり」です。アニメや漫画のレビュー・感想系のサイトも同様です。アフィリエイトの収益はアクセス数と事実上比例しますから、ほしいのはアクセス数というわけです。当然、コンテンツの内容的な品質管理などは十分になされていません。これが日本における「フェイク・ニュース」問題だと捉えることができるでしょう。内容虚偽とまでは断じきれないとしても、情報の品質・信憑性等が、総じてかなり低いのです(このブログがどうかってのはつっこんではいけない)

そこで、「フェイク・ニュース」を法理論の次元で検討してみたいと思います。

我が国やアメリカ合衆国などでは実定憲法レベルで「表現の自由 freedom of speech and press」が保障されています(日本の場合は、憲法21条1項)。その保障根拠については様々な見解がありますが、ここでは「思想の自由市場論」をとりあげてみます。

思想の自由市場論」とは、当初の提唱者の見解はともかくとして、大まかには、国家(公権力)による表現内容の規制によって表現内容の信憑性や正しさなどを確保するよりも、個人に表現の自由を保障することによるほうが表現内容の信憑性や正しさなどを確保できるのだ、という帰結主義的な見解のことです。信憑性のない情報や正しくない情報は自然に淘汰されていくものなのだ、と考えるわけです。「見えざる手による真理への到達」だとか「意図せぬ結果として真実に至る」だとか表現されたりします。この見解を突き詰めると、表現の自由とは、情報発信を中心とした情報流通の全過程における包括的権利だという考え方に至ります佐藤幸治など)。基本的には、何らかの思想表明の要素を伴う活動が保障の中核的対象ですが、思想表明の要素が薄い事実報道についても、国民の知る権利(情報摂取)に資するという理由でその保障が肯定されます(最大決昭和44年11月26日刑集23巻11号1490頁参照)

したがって、意見であれ、事実報道であれ、表現活動が無誤謬であるべきことは規範的に想定されていません。むしろ、憲法上は、発信された情報に間違いが含まれることが予定されており、それが許容されています。

そうすると、フェイク・ニュース問題の核心は、内容の虚偽性自体ではなく、内容が虚偽であることについてそれが明らかになるまでのタイムラグの長さ(要淘汰時間)と虚偽であることによる社会的な影響の大きさ(反社会的影響力)の2点に求められるべきことになるものと考えられます。このような意味では、内容が間違っている/真実に適合していないから問題なのだ、と考えることは適切ではないように思われます。問題の捉え方に注意が必要でしょう。

*なお、ついでだから書いておきますと、テレビ局や新聞記事などの報道では「被疑者」を「容疑者」、「被告人」を「被告」などと表現していますが、これは『記者ハンドブック 新聞用字用語集』(共同通信社、第13版、2016年)などに基づくマスメディア業界における正確な表記です。たしかに、法文の表記とは異なっているものもありますが、もともとは法文で用いられている語句自体が誤訳だったり担当官僚が創り出した造語だったりするので、このような用語法自体にそこまで目くじらを立てる必要があるとは思われません。

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