症拠手記

法学的実践知を綴ったもの。概念の遡及的変更を繰り返す通時的な読み物としてお楽しみください。

『アーキテクチャと法』の感想と批判

こんにちは~ GWたのしんでますか~?

人付き合いの悪い私は、GWの半分くらいは読書して過ごしておりまして、ここまでで計十数冊読みました。今回は、その十数冊の中から興味深いと思った書籍一冊の感想文(に託けた批判的自説展開)です。松尾陽編『アーキテクチャと法』(弘文堂、2017年)について考えてみましょう。例によって要約とか読書感想文のお作法はすっ飛ばします。みなさんも、せっかくだし同書の内容については本を買って読んでくださいな。

1 アーキテクチャ概念

アーキテクチャ」とは、広義では、操作可能な物理性と定義されます。この時点で私個人は定義の仕方がとても気に入らないのですが、要するに、客観的物理環境の操作を通じて人々の行動を一定の方向へと誘導することが狙いの概念です。もちろん、これをネガティヴに捉えることもできれば、ポジティヴに捉えることもできます。毒にも薬にもなる両価的概念というわけです。法規範が個人の主観的意思へと働きかけることで統制をかけるのに対して、アーキテクチャは個人の行為の場である客観的環境のほうを調整するものであるかのように説明されます

そうですね、たとえば、このブログは以前「ゆるふわ刑法ブログ」というタイトルで運営しており、かわいい絵柄も盛り込んで、文章も正確性を放棄してかなり乱雑に書いていたわけですが、このブログを安易に批判しようとする人たちは「ゆるふわ」という部分を必ず揶揄することになります。わざわざそうなるように私がデザインしているからです。普通の人間であればそういう性格の悪い仕掛けになっていることに気づくわけがないので、ほぼ確実にひっかかります。あとは、みなさん基本書って必ずサーチしますよね。もともとこのブログは基本書紹介サイトを「装っていた」のですよ。そのほうがマーケティング上、有利だからです。アフィリエイト・プログラム(AP)との関係で書籍を紹介するサイトはいくつもありますが、このブログはそれを逆手にとって利用することからはじまりました。つまりAPサイトに擬態したわけです。実は、真のコンテンツはそっちじゃなかったのです。…などといった心理的誘導を実験的に大量に織り込んだのが旧ブログでした。これがアーキテクチャってやつ(自分で書いてて性格歪んでるなって思いますね)

これは従来も使われてきた手法ですが、アーキテクチャ概念は、とりわけインターネットの発達に伴うサイバー・リバタリアニズムという、ある種のユートピア思想への批判として登場した背景があります(リバタリアニズムについては「正義論」参照)。つまり、インターネットは個人を単位とする非中央集権的な分散型ネットワークであって、国境もなく、誰にも規制されることはない真の自由を実現できる環境なのだ、という思想に対し、いやプログラムコードとかでいくらでも統制できるじゃないですか、Google や Amazon が本気を出せば個人の行動なんか簡単にコントロールできちゃいますよね的な批判が加えられたわけです。一見すると自由に見えるサイバー空間において、それを裏で維持しているシステム(=アーキテクチャ)がコントロール可能なことが露見してしまったのです。

2 無意識と幻想

私に言わせれば、この「一見すると自由に見える」という幻想的部分が決定的に重要です。素朴にアーキテクチャ概念を「操作可能な物理性」と捉えると単なる「環境作り」に堕することになります。こうなるともう論点が拡散してしまって収拾が付きません。アーキテクチャ概念は、そういう環境学的アプローチないし環境デザインを標榜するものではありません。このような誤謬は、法学者が主観/客観という近代的パラダイムに依然として固執し、そこから抜け出せないからこそ生じるのです。同書でも言及されながらあまり深掘りされていない概念があります。それが「無意識」です。同書は全体を通してこの視点が致命的に弱いように思います。主観/客観という枠で捉える限り、「無意識」の位置はありません。しかし、アーキテクチャはこの「無意識」に作用することに決定的な意味があります。これは法規範が意識に作用することと対照的です。

無意識とは、フロイトの発見した概念であり、意識「でない」心的領域をいいます。フロイト理論を継承した初期ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」などと言って、これを構造言語学的に把握していました。厳密にやるとおそろしくめんどくさいので適度に曲解していきますが、関係部分だけピンポイントに(曲解して)説明すれば、無意識においては、現実性(=幻想)の背後に現実があるのです。我々の認識はすべて幻想であり、裏で現実界がこれを支えている図式になるのです。この現実界自体は厳密には基本的に認識も操作もできないものなのですが、ここでは認識して操作可能な対象として物理性を伴うものという代替物として考えることにします。比喩的にいえば、舞台と舞台裏装置の関係だと思っておいてください。頭の中のスクリーンに裏から映像を映し出す装置がアーキテクチャです。この理解によれば、すべてを映し出した上で警告の字幕を被せる手法が法規範的統制であり、最初から検閲的に一部の映像を投影させない手法がアーキテクチャ的統制ということになります。

で、無意識概念を踏まえて改めて「アーキテクチャ」を定義するのであれば、「ファンタズムに遮蔽された『操作可能な物理性』」です。「身体性」という用語を使うとややこしくなるので、ここでは使いません。この定義によってサイバー空間を背景とした説明も行いやすくなります。すなわち、「自由に見えるサイバー空間(仮想/幻想/想像的なもの)は裏に操作可能なシステムがある」をより一般化して「自由に見える認識論的構成世界は裏にアーキテクチャがある」というわけです。で、アーキテクチャは本来、表に出てきちゃいけないものなのですよ。舞台裏装置でなくてはなりません。あえて主観/客観の別を持ち出すのであれば、主観的客観性がアーキテクチャです。意識に上らない背景画像とでも言いますか。真の意味でイデオロギー的ともいえます。同書は、全体的にもう少しこの点を深掘りしてもよかったのではないかな、と思うのです。一部の論考でそれっぽいことは触れられていますけれども。

と批判的に書きましたが、とても興味深い内容でした。あとは理論面のほかには具体的なやり方とかですかね…

感想文おわり。

3 追記:今後の法学領域におけるアーキテクチャ論の展望

上に述べたように、同書に対する私の感想としては、アーキテクチャ論の素朴な環境デザイン論化への懸念に加えて、無意識の視点の欠如に対する批判が要点です。ただ、ちょっと後ろ向きになってしまったので、反省として、もう少し建設的な話も加えることにします。

私個人の見解としては、「アーキテクチャと法」論は、次のように整理したほうがよいと思います。

  1. 公共政策論や法的助言・スキームとしてのアーキテクチャと法(あるいは市場や法以外の社会規範)との役割分担論
  2. アーキテクチャ特有の法的性質・法的効果論
  3. アーキテクチャ自体に対する法規制論

これでもう少し議論はクリアーになるかな、と。もちろん項目間で連動はしますけれども。もう既に整理されているんですかね…

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