緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

ものごとの見方について

こんにちは~

新年度おめでとうございます。

継続的にブログを更新できる自信がないので、この記事で一度、本ブログの更新を「停止」することにしたいと思います。各記事は2時間~半日くらいの時間をかけて書いていますが、専門的な内容で自分のアイデアも加えて書き続けることのたいへんさを痛感いたしました。比較的短い間でしたが、お読みいただきありがとうございました。少しでも皆様のお役に立つことができたならば幸いです。

今後は、かなーり気まぐれに更新する予定ですが、おそらく次の記事までの期間が長くなってしまうと思います。定期更新も試みたことがありますが、挫折しました。ゆるふわのブログなんてそんなものだとお考えください。何か興味深いテーマがあれば、不定期にとりあげてみようと思います。今後とも、よろしくお願いいたします。

それでは、今回のテーマ「ものごとの見方について」に入りたいと思います。刑法と関係ない気もしますが、私が伝えておきたいことを書こうと思います。

◆「コップ半分の水」の問題

誰が言い出したのかは知りませんが、「コップ半分の水」の問題をご存知かと思います。コップの半分くらい水が入っているとき、これを「まだ半分も残っている」と思うか、「あと半分しか残っていない」と思うか、という問題です。これをもって、ものごとをポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるか、「ものごとの見方」がわかるとされるらしいです。しかし、こんな問題で、本当に「ものごとの見方」がわかるのでしょうか?

このブログでは何度か触れましたが、ものごとの見方は、常に自身の「目的」によって規律されるものと考えられます。たとえば、「書籍を買う」という日常的な行為について見ても、その書籍を教養のために読むのか、試験問題を解くために読むのか、ビジネスで使うために読むのか、その購入の目的によって書籍の価値は大きく異なってくるでしょう。目的によって、その書籍に対する見方(良い本かどうか)は変わります。簡単に言えば、目的が価値を決めるのです。

目的が「ものごとの見方」を決めるという意味で、目的は価値判断の基準そのものです。本来、「コップ半分の水」の問題の答えは、そのときの自分の目的に依存するはずです。コップの1/4の水であろうと、コップいっぱいの水であろうと、そのときの自分の目的次第で多いとも少ないとも感じられます。ここから、「コップ半分の水」の問題が真に教えてくれることは、目的がなければ選択はできないということだとわかります。

では、このことは私たちに、どのような示唆を与えてくれるのでしょうか?

◆選択の責任を負うのは常に自分

現代社会で最も重要なことは、あなた以外の誰も選択の責任を負ってくれないということです。何度言っても言い足りないですが、これが「自律的個人の尊重」です。不利益を被っていようとも、それはあなたの選択の必然的な帰結です。相手が悪い、環境が悪いと言ったところで何も変わりません。それに対処できなかった自分を反省することでしか前に進めないのです。

このブログもそうですが、今後、あなたに「余計なお節介」を言ってくる人たちがきっと出てきます。たとえば、ネット上では、現職の弁護士が法科大学院をはじめとする司法制度改革をさんざん叩いていますが、彼らは別に法曹を目指す学生に何かしてくれるわけではありませんし、発言について責任をとってくれるわけではありません。学生にとって、彼らの意見を読むことは時間の無駄だと思います。暗に誰か手を差し伸べてくれるだろうと考えて、あるいはそのご立派な意見に「その通りだ!」と思いながら、ついつい読んでしまいがちですが、それを読んだ後に残るものは何もないのではないですか?

よく考えてください。あなたの人生上の、職業上の目的にとって、本当に必要なことは何ですか? 新しい制度の批判ですか? それとも新しい制度で生き残ることですか? 何が正しいことなのかは、あなたの目的からしか判断できません。私も含め、ほかの誰からも教えられることはありません。あなたの人生はあなたしか決められないのです。他人の意見に耳を傾けるにしても、本当にあなたのためになるのかという点をよく考えてください。選択の責任を負うのは、常にあなたなのですから。

もしあなたが法曹を目指す学生であれば、必要なことは、司法制度改革後の時代を生き残る方策を知ることではないかと思います。一般論でしか語れませんが、それ以外のことは不要だと思いませんか? 具体的にどのような法曹を目指すのか、どのようにして生き残っていくのかは、人それぞれでしょう。これらは、あなたが決めるほかありません。

ここで大切なことは、目指すべき明確な「理想像」(=目的)が必要だということです。それがなければ、他人の「もっともらしい意見」に流されるだけの人生を送ることになります。なぜならば、自分で選ぶための判断基準を持っていないからです。自分で決められなければ、他人に決めてもらうしかありません。突き詰めると、自分で自分を支配できない人は、他人から支配されるしかないと言えます。

他人から支配されないためには、上のような意味で強い信念や理想が必要です。そして、強い信念や理想があれば、必然的に自分の選択に対する責任感も出てくるはずです。判断基準となる信念や理想を持たない人ほど、あいまいな選択しかできず、他人の判断に依存し、結果的に責任感が欠如します。このような人たちの用いる象徴的な表現が「誰々のためにそうしたんだ」というものです。自ら選択していながら、他人に責任を転嫁してしまうのです。彼らは、いわば「他人の人生」を生きているのです。あなたは、ぜひ、あなた自身の人生を生きてください。自分の信念や理想を持ってください。

それではまた~

 

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