こんにちは~
今回は、最近の判例をフォローしておきたいと思います。テーマは「裁判員裁判と死刑判決」です。第1審の裁判員裁判で死刑判決が下された事案を最高裁がひっくり返したのです。
あまり刺激的な時事問題を扱いたくはないのですが、刑法ブログとしてこれを扱わないのもどうかと思いますので、とりあげてみることにします。何がよいとは言えないかもしれませんが、現行法がどのような考え方で運用されているのかということを確認しておくくらいのことは、このブログにもできるかもしれません。
◆何のための裁判員制度なのか?
まず非常に誤解が多い裁判員制度について、その趣旨を確認しておきましょう。
裁判員制度の趣旨は、その当否は置いておくとして、「司法への市民感覚の反映」ではありません。裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(以下、「裁判員法」といいます。)の第1条を見てみましょう。第1条には、この法律(つまり裁判員制度)の趣旨が記載されています。
この法律は、国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することにかんがみ、裁判員の参加する刑事裁判に関し、裁判所法及び刑事訴訟法の特則その他の必要な事項を定めるものとする。
裁判員法は、裁判所法と刑事訴訟法の特別法です。そして、その特別法としての趣旨は、上記のように「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上」に求められます。間違っても「国民に対する司法の理解の増進」ではありません。どちらかと言えば、むしろ「市民への司法感覚の反映」が趣旨なのです。
この法律が、具体的にどこに問題意識を置いているのかと言えば、これまで「他人事」のように行われていた刑事裁判は、本当はあなたもかかわっているものなのですよ、ということを国民に身をもって体感させることなのです。アメリカにおける陪審制とは、制度趣旨がまったく異なることに注意してください。日本の裁判員制度は、日本国民の「法意識」の形成を目指しているのです(日本において、司法と市民の法に対する意識が乖離していることなどについては、法社会学者の川島武宜による『日本人の法意識』(岩波書店、1967年)が有名です)。
これに関して、ご存知、民法の内田先生は、ある地裁の所長から次のようなことを聞いています。
裁判員裁判を管理職として経験したある地方裁判所の所長に聞くと、裁判員になる前と経験した後とで一般の人の法に対する感覚が別人のように変わると言います。何日間か自分で事件を担当して、被告人を目の前にして証人尋問をやったりして実際に裁判にかかわると、法に対する意識が変わる。
繰り返しますが、現在の裁判員制度の妥当性はここでは論じません。ここでは、「司法への市民感覚の反映」が趣旨とは(少なくとも法的には)されていないのだということを指摘しておきたいと思います。
もっとも、実務運用上、それなりに裁判員裁判が意識されていることも事実ですから、このような意味で「市民感覚の反映」がなされている場合もありうるかと思われます。このような意味では、司法に対する「市民感覚の反映」があるとしても、裁判員制度の反射的効果にすぎないことになるでしょう。
◆判例至上主義だから死刑が覆された?
次に確認をしておきたいことですが、現行刑法は必ずしも「悪い人」を罰することを目的としていないという点です。これは、法曹関係者もよくわかっていないかもしれないことなのですが、現行刑法の目的は、あくまでも犯罪の一般予防(抑止)なのです。したがって、いくら悪いことをしても犯罪の予防にとって無意味ならば処罰されませんし、犯罪の予防に効果的でなければそれだけ量刑は軽くなります。感情的に被告人は悪いやつだと思ったとしても、刑法はそれを一般予防の範囲でしか考慮することはできません。刑事ドラマや探偵小説などは、この点においてしばしば誤っています。「悪いやつを逮捕する」、「真実を発見する」などの発想は、かつての糾問時代の考え方です(「水戸黄門」も「杉下右京」も考え方は同じなのです…)。
また、仮に犯罪の一般予防に役に立ったとしても、被告人が行った行為と「つりあい」のとれた量刑でなくてはなりません(罪刑均衡原則、相対的応報刑論)。なぜならば、行為の違法評価を適切に示せなくなるからです。刑事裁判では、単純に違法か適法かが問題とされているわけではなく、ほかの事件(つまり必然的に過去の先例)と比較してどれだけ違法なのかという定量的な判断も行っているのです。
極端な教室事例で示せば、同じモノを同じように盗んでも、AさんとBさんとで量刑が変わってしまうのはいかにも不当だと考えられるのです。これは、判例至上主義なのではなく、個人の平等な取扱いを言っているだけです。とりわけ死刑が考えられるような事例では、なおさら平等な取扱いにしてもらわないと不当であるように思われます。
今回の最高裁の判断は、上のような観点からなされていることが、以下の判示部分から分かります。
刑罰権の行使は,国家統治権の作用により強制的に被告人の法益を剥奪するものであり,その中でも,死刑は,懲役,禁錮,罰金等の他の刑罰とは異なり被告人の生命そのものを永遠に奪い去るという点で,あらゆる刑罰のうちで最も冷厳で誠にやむを得ない場合に行われる究極の刑罰であるから,昭和58年判決で判示され,その後も当裁判所の同種の判示が重ねられているとおり,その適用は慎重に行われなければならない。また,元来,裁判の結果が何人にも公平であるべきであるということは,裁判の営みそのものに内在する本質的な要請であるところ,前記のように他の刑罰とは異なる究極の刑罰である死刑の適用に当たっては,公平性の確保にも十分に意を払わなければならないものである。〔…〕死刑が究極の刑罰であり,その適用は慎重に行われなければならないという観点及び公平性の確保の観点からすると,同様の観点で慎重な検討を行った結果である裁判例の集積から死刑の選択上考慮されるべき要素及び各要素に与えられた重みの程度・根拠を検討しておくこと,また,評議に際しては,その検討結果を裁判体の共通認識とし,それを出発点として議論することが不可欠である。このことは,裁判官のみで構成される合議体によって行われる裁判であろうと,裁判員の参加する合議体によって行われる裁判であろうと,変わるものではない。〔強調引用者〕
(最決平成27年2月3日 裁判所ホームページ)
決定としてのポイントは2点あり、①死刑適用の慎重、②公平性の確保です。上の判示を読めばわかる通り、判例至上主義が理由ではありませんし、決して裁判員裁判を軽視しているわけでもありません。
なお、量刑判断について、裁判員は先例なんて知らないんじゃないかと思われる方もいるかもしれませんが、裁判所には専用のデータベースがあるので問題はありません。評議の時に裁判官が同種事案における量刑の傾向を棒グラフで表したプリントとかを持ってきてくれます。
◆本当の市民感覚とは?
現行の裁判員制度は「市民感覚」を取り入れることを法的には趣旨としていませんが、やはり「市民感覚」は(立法上、あるいは、制度運用上)無視すべきものではありません。法は、本来的に民主的正当性を必要とするからです。しかしながら、どうもマスメディアなどの言う「市民感覚」の内容が不適切ではないかと思われるところがあります。
市民感覚=被害者感覚という図式は正しいと思われます。しかし、その一方では、市民感覚=加害者感覚ということも忘れてはいけないはずです。確率論的には、自分が被害者になるか加害者になるかは、たいして差がありません。
「自分は決して犯罪なんてしない。犯罪をするのは頭のおかしい人だ」と無意識に思い込んでしまいがちですが、そうではないのです。たとえば、違法ダウンロードだけでかなりの国民を著作権侵害罪(実は、万引きなどの窃盗罪より重い量刑)で有罪に追い込むことができると思われますが、あたまのおかしい人だけが違法ダウンロードをやっているとは思われません。誰でも犯罪の加害者になり得るのです。
殺人と違法ダウンロードでは全く異なるのだ、と言いたい人もいるかもしれませんが、ある意味でその通りです。自分が加害者や被害者になる確率が圧倒的に異なるだけなのです。殺人の場合は、自分が被害者になる確率も加害者になる確率も同様に同程度に低いのですが、そうであるにもかかわらず、「私は被害者になるかもしれない」と思っても「私は加害者になるかもしれない」とは思わないのです。人間は「自分だけは特別なのだ」という意識から逃れられません。
被害者や被害者遺族の心境は、察するに余りあるところです。感情的になるなというほうが無理でしょう。しかしながら、当事者でない私たち(とりわけ裁判員の方々やマスメディア)は、あくまでも「潜在的な被害者」であると同時に「潜在的な加害者」なのです。当事者には無理でも、第三者ならば冷静さを保てるはずです。一度立ち止まって考えてみる必要があります。
私たち「第三者」たる一般市民は、被害者の立場に立ち、それでいて加害者の立場にも立てることが望ましいのではないでしょうか。
だいぶ重い話になってしまいました。
それでは~