こんにちは~。だいぶ寒くなってきましたね!
というわけで、今回のテーマは、判例の読み方です。長文を反省して、なるべく簡潔に書いていきたいと思います(※下図は特に意味はありません)。
◆判例とは
1.規範定立
まずは、次の判例を読んでみてください。
刑法三六条が正当防衛について侵害の急迫性を要件としているのは、予期された侵害を避けるべき義務を課する趣旨ではないから、当然又はほとんど確実に侵害が予期されたとしても、そのことからただちに侵害の急迫性が失われるわけではないと解するのが相当であり、これと異なる原判断は、その限度において違法というほかはない。しかし、同条が侵害の急迫性を要件としている趣旨から考えて、単に予期された侵害を避けなかつたというにとどまらず、その機会を利用し積極的に相手に対して加害行為をする意思で侵害に臨んだときは、もはや侵害の急迫性の要件を充たさないものと解するのが相当である。そうして、原判決によると、被告人Aは、相手の攻撃を当然に予想しながら、単なる防衛の意図ではなく、積極的攻撃、闘争、加害の意図をもつて臨んだというのであるから、これを前提とする限り、侵害の急迫性の要件を充たさないものというべきであつて、その旨の原判断は、結論において正当である。〔強調引用者〕
狭義の「判例」とは、原則として、①最高裁判所の判決文又は決定文のうち ②当該事案の解決に必要不可欠な ③結論命題をいいます。上に引用した判例で言えば、着色した部分のことです。言い回しはだいたい決まっていて、「Pのときは、Qと解するのが相当である」とか「Pの場合は、Qと解するのが相当である」とかそういうかんじで表現されます。つまり、「P→Q」という要件・効果の命題になっているのが「判例」であり、俗に「規範」と呼ばれているものです。それ以外の部分は判例ではありません。
このため、高等裁判所や地方裁判所の裁判例は「判例」ではありません。これらは、「判例」とは区別して「裁判例」と呼びます。また、当該事案の解決に必要不可欠でなければならないので、事案の解決に不可欠とは言えない「傍論」については「判例」ではありません。さらに、結論命題の理由付けについても「判例」にはなりません。理由づけ部分は、たとえば、それをRと置くと、「Rであるから、Pの場合は、Qと解するのが相当である」や「Pの場合は、Qと解するのが相当である。けだし、Rだからである」というように表現されます。Rの部分は、原則として「判例」にはならないのです。この記事では、これらの例外に関しては省略します(より深く正確に知りたい方は、中野次雄ほか『判例とその読み方』(有斐閣、三訂版、2009年)、金築誠志「主論と傍論―刑事裁判について―」司研2(1973年)125頁以下等をご参照ください)。
箇条書きにまとめると、「判例」の要件は(原則として)次の通りです。
- 最高裁判所の判決又は決定であること
- 当該事案解決に必要不可欠といえること
- 結論命題であること
もっとも、「判例」は具体的な事実との関係でなされた判断ですので、結論命題はその事案の事実関係が念頭に置かれています。つまり、「判例」はその事案を解決する趣旨の命題ですから、趣旨が妥当しない場合には判例の射程が及びません。この点は条文解釈と基本的に同じですが、条文解釈とは異なり念頭に置かれている事実関係が現に存在するので、命題の趣旨は明確になります。ですから、判例の射程は、このような明確な事案解決の意図によって限定されるので、条文と比較して適用範囲がかなり狭くなるのです。このことについて、ある学者は次のような表現で書いています。
判決(決定)要旨には、何かしら一般的な命題が書かれていることが多い。最高裁、とりわけ複数の最高裁判例が、同じような一般的な命題を掲げていれば、それが判例理論である、と思うかもしれない。しかし、事案との関係を無視して、命題を一般論として理解するのは誤りである、とはすでに述べたことである。判例の示す一般論=判例理論ではない。〔…〕実は、「判例理論」とは、法曹や研究者が、裁判例の集積の中から1つの筋を読みとり、理論的に整理することによって、後から作り上げていくものなのである。
この記事の言い回しとは異なっていますが、その意図するところは同じだと思います。事実関係とは無関係に判例を一般化し、形式的に適用することは控えなくてはなりません。そして、具体的な事実関係からどこまで命題を抽象化できるのかを示したものが学説であると言えます。言い方を変えれば、学説は、判例の理由付けを提示するものであり、その理由付けが妥当する限度(判例の射程)を示してくれるものだということです。たとえば、引用した判例について、学説は次のように述べています。
正当防衛における急迫性の要件には、緊急事態において国家機関の対応が間に合わないときの例外的な実力行使という、その本質的性格が最も明白に示されているといえよう。侵害を予期し、かつそこに赴かなければならない(または、その場にとどまらなければならない)特段の理由もなく、そこに行かない(そこを立ち去る)ことによって侵害を容易に回避できるのに、その機会を利用して相手を攻撃する意思で現場に赴いて(そこにとどまって)攻撃を受けたとき、緊急行為としての正当防衛の性格に照らして、正当防衛の前提状況を欠く、とする解釈論は説得力をもつものである。〔強調引用者〕
(井田良『講義刑法学・総論』(有斐閣、2008年)130頁)
これが判例の理由付けということになります。
なお、引用した「判例」を答案向けのコンパクトな論証にすると、次のようになります。
緊急行為としての正当防衛の性格から、単に予期された侵害を避けなかつたというにとどまらず、その機会を利用し積極的に相手に対して加害行為をする意思で侵害に臨んだときは、もはや侵害の急迫性の要件を充たさないと考えるべきである。
最終的に、試験ではここまでコンパクトにしなくてはなりません。ただし、以上のような過程をすっ飛ばして、内容を理解しないまま「論証パターン」だけ覚えても意味がありませんし、試験対策的にはむしろ非効率ですので、その点をご留意いただきたいと思います。一見時間がかかるようにも思えますが、慣れればたいしたことはありません。慣れるまでにあきらめないことが重要です(論証に関しては、「『論証パターン』の作り方」も参照)。
2.事例判断
次に、こちらの判例を読んでみてください。
以上の事実関係の下においては,被害者の死亡原因が直接的には追突事故を起こした第三者の甚だしい過失行為にあるとしても,道路上で停車中の普通乗用自動車後部のトランク内に被害者を監禁した本件監禁行為と被害者の死亡との間の因果関係を肯定することができる。〔強調引用者〕
これを「事例判断」と呼びます。「以上の事実関係の下においては」や「このような事実関係からすると」という前置きが、事例判断であるかどうかを見分けるポイントです。事例判断では、その前置きの通り、事実関係を注意深く読まなければならなくなります。「Pという事実関係が認められる場合には、Qである」という命題構造になっていますから、「Pという事実関係」が何を指しているのかが重要となるからです。引用した判例で言えば、以下のことが「以上の事実関係」にあたります。
(1) 被告人は,2名と共謀の上,平成16年3月6日午前3時40分ころ,普通乗用自動車後部のトランク内に被害者を押し込み,トランクカバーを閉めて脱出不能にし同車を発進走行させた後,呼び出した知人らと合流するため,大阪府岸和田市内の路上で停車した。その停車した地点は,車道の幅員が約7.5mの片側1車線のほぼ直線の見通しのよい道路上であった。
(2) 上記車両が停車して数分後の同日午前3時50分ころ,後方から普通乗用自動車が走行してきたが,その運転者は前方不注意のために,停車中の上記車両に至近距離に至るまで気付かず,同車のほぼ真後ろから時速約60㎞でその後部に追突した。これによって同車後部のトランクは,その中央部がへこみ,トランク内に押し込まれていた被害者は,第2・第3頸髄挫傷の傷害を負って,間もなく同傷害により死亡した。
ここでは、判例の射程が問題になります。事例判断は、抽象的な命題の形をとっていませんので、結論命題といっても「この事実関係からはこうなる」としか言えません。そうすると、どのような事実がどのように評価されたのかが問題となり、同時に、それが判例の射程を画定する作業となるのです。
もっとも、最高裁がどの事実を重視したのかは実際のところわかりませんし、最高裁としても、わからないからこそ事実関係の一切を条件にした事例判断という形にしているのです。それゆえ、事例判断に関しては、学説(判例解説や基本書)を参照する必要性が大きくなります。慣れてくれば、学説を参照しなくとも自分で判断できるようになりますが、研究者はこういうことを専門にしていますので、学説があれば学説を参照したほうが時間的コスト等はかからないでしょう。
上に引用した判例で言えば、学説は次のような理解を示しています。
そこでは、「行為の危険性が結果へと現実化したか」(危険の現実化)が基準とされて、因果関係の判断が行われているということができよう。〔…〕判例においては、相当因果関係説に関して問題となった〔…〕立場は明らかである。すなわち、①行為の危険性は、行為時に存在した事情を基礎に客観的に判断されること、②因果経過の経験的通常性自体には独自の意味はなく、それが欠ける場合であっても、行為の危険性の結果への現実化が肯定されることがあること、いい換えれば、危険の現実化が判断基準であり、介在事情の予測可能性はその判断に意味を持ちうる限りで考慮されることである。
また、別の学説は次のように述べています。
監禁致死傷罪が設けられているのは、監禁行為には死傷の結果が類型的に伴いうるからである。自動車のトランクは、そこに人が入ることが予定されておらず、後部からの追突というしばしば生じる事態との関係で保護されない危険なスペースであることから、トランク内への監禁は、監禁致死傷罪の基本犯として強い禁止の対象となりうる行為である。トランク事件においては、このような意味で、禁止の根拠となっている、行為のもつ危険が結果として現実化したという関係を肯定することができる。そこで、行為の時点からみたときの予測可能性の程度が低いとしても、相当因果関係を認めうるのである。
(井田良『講義刑法学・総論』(有斐閣、2008年)130頁)
上に引用した事例判断は、「行為の危険性が結果へと現実化した場合には、因果関係が認められる」という結論命題にまで抽象化され、相当因果関係説のひとつの内容として位置付けられていることが分かります(ですから、厳密には危険の現実化説と相当因果関係説の2つを並列することは誤っているわけです)。このように、学説は、事例判断に対して「抽象化」及び「理論への位置づけ」という形でその射程を示してくれます。事例判断を抽象化するだけでは理由付けが明らかになりませんので、抽象化された命題を理論へ位置づけ、理由付けをする必要があるということです。
答案でも規範の理由付けを書くはずです。たとえば、引用した判例については、次のような理由付けをした論証にすればよいでしょう。
因果関係とは結果の発生を理由として行為により重い違法評価を肯定できるほどの密接な関係を言うのであるから、行為の危険性が結果へと現実化した場合にのみ因果関係が認められるべきである。
(参考:井田・前掲124頁、山口・前掲61頁)
◆判例の拘束性?
…と、ここまで判例の読み方を紹介しておいて恐縮ですが、判例に法源性はありません。端的に言って、判例に先例拘束性はありません。知らない人が多くてけっこうショックなのですが、憲法76条3項より「すべて裁判官は、…この憲法及び法律にのみ拘束される」ので、判例に拘束力を持たせることは憲法レベルで禁止されています。憲法は、76条3項で判例の先例拘束性を否定するとの価値判断を示しているのです。
これは、日本が大陸法系制定法システムを採用するからです。英米法圏とは異なり、日本の司法には民主的正当性がありませんから(司法官僚制、陪審制の不採用、当事者主義の不徹底、最高裁判所裁判官の国民審査の機能不全、裁判所人事の不透明性等)、国会で成立した法律に民主的正当性を求めるしかないのです。「条文が大切だ」と言われるのはこのためです。「条文が大切だ」の裏の意味は、「判例に価値を置いてはならない」ということです。
ですから、判例に「事実上の拘束力」(刑事訴訟法405条2号・3号等参照)なるものを持たせている現在の実務は、かなりグレーゾーンであることがわかるかと思います。憲法学者は憲法76条3項についてかなり無理をして「判例に拘束力を持たせることまでは禁止されていないのだ」という趣旨の解釈を試みていますが、76条3項の文言の形式上は不可能に近いと思われます。みなさんは、どう考えますか?
それではまた~
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▼本文で引用した文献がこちら

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