緋色の7年間

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行為規範と制裁規範

※最終更新:2016年4月10日

こんにちは~

今回のテーマは、「行為規範と制裁規範」です。難しい議論ですが、どうもこれらの概念を知りたいという需要があるみたいなので、がんばって解説してみたいと思います。

行為規範制裁規範の各概念の説明は、必然的に、現在それを強力に主張している高橋則夫先生の理論(高橋則夫『規範論と刑法解釈論』(成文堂、2007年))に関する説明が中心となります。高橋先生以外にも制裁規範概念を採用している刑法学者はいないわけではありませんが、刑法理論全体に大々的に導入したのはおそらく高橋先生がはじめてだと思います。多数説は制裁規範と裁判規範の区別をしておりませんので、まずは制裁規範概念と裁判規範概念とがどのように異なると考えるべきなのかを把握するところからはじめたほうがよいでしょう。

あらかじめ断っておきます。高橋先生の理解によれば、H.L.A.ハートの規範論が刑法理論の重要な位置を占めるべきことになりますが、個人的にはハートを引用する必要性がないと思うことと、抽象的・哲学的になりすぎるのが嫌なことから、この記事では、第1次ルールや第2次ルールなどのハートの重要概念の部分はばっさりカットします。私が理解していないだけで本当は重要なのかもしれませんが、そのあたりはご容赦ください。同様の理由で、ラートブルフやフラーなどにも言及しません。

◆「制裁規範」の考え方

各規範の定義というか役割について、ものすごーく簡単にまとめておきたいと思います(〔〕内は規範の名宛人)。

  • 裁判規範 … 裁判のルール〔裁判官等〕
  • 行為規範 … 社会生活上のルール〔一般人〕
  • 制裁規範 … ルールを回復させるメタルール〔裁判官等〕

従来は行為規範と裁判規範が対置されてきたわけですが、あえて制裁規範を考える立場からすると、そうではないというのです。「行為規範重視→行為無価値論」、「裁判規範重視→結果無価値論」の図式が一般的ですが、制裁規範を観念する立場からは、裁判規範は当然の前提であり、むしろその上で規範が果たすべき役割を考えるべきだというのです。「刑罰法規は、裁判規範であることを前提として、刑法上の行為規範を明示するとともに、その行為規範に違反した場合には刑罰を科すという制裁規範を明示する」(高橋則夫『刑法総論』(成文堂、第2版、2013年)10頁)のであり、「制裁規範はつねに行為規範を前提とするが、逆に、行為規範には必ずしも制裁規範が賦課されるわけではない。〔…〕法益保護は刑法の特権ではないのである」(高橋・規範論9頁)とされます。

これを図にすると、以下のようになります。

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この立場においては、基本的には、行為規範に一般予防論・行為無価値が、制裁規範に応報刑論・結果無価値法的平和の回復)が、それぞれ対応すると考えられます。ここにいう「法的平和」とは、「加害者、被害者、コミュニティの3者間における規範的コミュニケーション」として定義される規範的な概念です(高橋・規範論11頁)。また、高橋先生の場合は、最終的には、制裁規範に対する代案として修復的司法を提示する狙いがあるようにも思われます。ドイツのロクシンによる答責性カテゴリーを制裁規範概念という原理レベルに還元するものとも言えるでしょう。

【補論】クラウス・ロクシンの理論について ロクシンの理論は難しいので私もよく分かってはいないのですが、「答責性」というのは不法構成要件及び責任と並ぶ犯罪論の第三カテゴリーで、一般予防や特別予防などの刑事政策的諸原理をまとめて考慮する段階のようです。このような体系的戦略は、ロクシンが応報刑論に否定的な立場をとっているからであり、高橋先生も応報的色彩を脱色する方向性の立場なので、この点で見解を一致するものと思われます(ロクシンのこの主張の部分の翻訳は高橋先生が行っています)。私個人は、それが「制裁規範」という発想につながっているのではないかと推測しています。しかしながら、ロクシンの理論に対しては、ドイツでも日本でもトートロジーではないかという趣旨の批判が向けられていたりしますから、難しいところです。

◆犯罪論への影響

犯罪論のレベルで考えてみましょう。

上のような立場からは、行為規範違反実行行為)を抽象的危険犯と把握し、事後的に法益侵害の危険性の程度に応じて制裁規範により刑罰のレベルが変動すると理解することになります。既遂犯だろうと未遂犯だろうと共犯だろうと、行為規範のレベルでは変わらないと考えるわけです。たとえば、殺人罪の共同正犯については「他人と共謀して人を殺してはならない」という行為規範が設定されているのではなく、「人を殺してはならない」という単独正犯と変わらない行為規範が設定されているのだと考えることになります。どのように処罰されるべきなのかという制裁規範の違いがあるだけだと考えるわけです。

このように、高橋先生は行為規範を抽象的なものと考えます。具体化された行為規範「も」考える井田先生とは異なり、いわば行為規範を「薄く広い」ものと捉えて、あとは制裁規範の問題として考える戦略をとることになります。ここから解釈論上の帰結として、たとえば、錯誤論では抽象的法定符合説を採用することになります。

◆よくわからない

この問題に関する私個人の結論を書いておきます。

はじめにこの記事を書いて以降もいろいろ考えてみたのですが、やっぱりよくわからないです。

制裁規範は行為規範よりも高次のメタ規範のはずなのですが、他方で、行為規範と制裁規範が「対置」されるともされており、この点で混乱します。刑法学では、一般的には、「犯罪」という法律要件があって、「刑罰権の発生」という法律効果があると理解されています。そうすると、制裁の問題=刑罰の問題ですから、制裁規範は法律効果を規律する原理となるはずです。そして、行為規範違反行為が「犯罪」の本体であるならば、行為規範の問題は法律要件にかかる問題ということになります。ところが、要件論の部分で、なぜか制裁規範が持ち出されています。実行行為概念でさえ、制裁規範の問題とされているのです。そうすると、行為規範と制裁規範は、それぞれ犯罪と刑罰に対応するようなものではないということになります。こうなってくると、刑法学における行為規範概念の存在意義がよくわからなくなってきます。突き詰めると、刑法体系のすべてを制裁規範の枠組みに放り込むことになりかねません。

そもそも、「」の本質を「強制力」だと把握する通説的な立場からすると、法益の保護を目的とした行為規範の違反について、制裁規範(強制力/エンフォースメント)から切り離して独立して観念することはできないのではないかといった根本的な疑問が提起されることになります。要するに、制裁規範を法益保護原理から切り離して考えるとすると、何のための制裁なんだということになります。これに対する回答は「行為規範を維持するため」ということになるのですが、具体的に何をもって「行為規範の維持」というのかがよくわかりません。制裁規範がなければ行為規範を維持できないのであれば、行為規範が独立して存在する意味がわからなくなります。

それではまた~

 

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