◆はじめに
いつも本ブログをお読みいただきまして、ありがとうございます。内容に入る前に、少しこのブログの方針について書いておきたいと思います。
本ブログは、原則として時事的なテーマは扱いません。時事的なテーマは、事実関係がはっきりとは確定しにくく、私の調査能力ではそれを補えるほどの証拠資料を収集できないからです。時事的なテーマは、その性質上、文献や統計資料が入手困難である場合も多く、また、ネットに流通する情報の真偽を確認することにも多大なコストがかかります。報道機関でもない個人には、短期間で情報を検証し、精査することはおよそ不可能です。
このような曖昧な事実認識に基づいて時事的なテーマを論じるとなれば、当事者に対して配慮に欠けることを書いてしまうおそれが多分にあると思われます。現に問題となっている状況を混乱させ、あるいは悪化させることにもなりかねません。
ですから、時事的なテーマに限りませんが、本ブログの扱う内容は、可能な限り文献や統計資料などから事実関係の検証可能性を担保できる範囲に限っています。これまでの記事に、読みにくいだろうと思いつつ、しつこく文献等の参照をつけているのはそのためです(著作物の取り扱いに対する法的な配慮の意味もあります)。
以下に述べることは、現在発生している具体的な問題に対して何らの見解を表明するものではありません。特定の思想ないし価値観を支持するものでもありません。あくまでも、しろうとの「読書感想文」としてお読みください。
今回、この記事を書くにあたって参考にした文献は、次にあげる2冊の新書です。
◆法学としての「イスラーム法学」
「イスラーム法学」というと、日本の法律家も法学者も、まったくといってよいほど馴染みがないと思われます。というのも、イスラーム法学はイスラーム教と一体となっているので、大学では、主に文学部や神学部などが扱う対象となっているからです。この意味では、イスラーム法学は、「法学」というよりも「思想・哲学」の領域に属するとみなされています。
法学者の圧倒的多数は、英米法かヨーロッパ大陸法のいずれかを研究していますから、「法学系でイスラームの専門家」というのはおそらくゼロに近いのではないかと思われます。国際法学者がイスラーム世界を研究している場合もありますが、業界の構造として国内法領域と国際法領域には少なくない溝があります。科目としても、法律学科より政治学科に配置される傾向があるように思われます。あるいは、政治学や中東史の専門家でイスラーム法学を研究されている方もいらっしゃるかもしれませんが、「法学」としての見方はどうしても後退しがちです。
もっとも、「イスラーム法学」は、西洋諸国や日本におけるような「法学」とは多少意味合いが異なるので、これはこれでやむを得ないような気もします。ポストモダンの枠組み(現代思想)について多少勉強していれば、そちらからのアプローチの方が理解しやすいようにも思われます。
ただ、この記事では、あえてイスラーム法学を「法学」として考えてみたいと思います。
◆イスラーム法学と倫理的人間観
イスラーム法とは、「シャリーア」の訳語です。シャリーアとは、どうも元の意味は「水飲み場に通じる道」のことであるようで、そこから、神が命の泉に連れて行ってくれるという意味で「神の定めた掟」とされます(中田・前掲33頁)。すなわち、イスラーム法は、人が定めた実定法ではなく、(西洋的な法学におけるのとは別の意味で)神が定めた自然法であるということになります。また、この点でイスラーム法は、イスラーム教とは不可分の関係にあるということにもなります。
イスラーム法の法源は、この「シャリーア」だけです。シャリーアは、
の2つで構成されています。
『クルアーン』とは、預言者ムハンマドによって伝えられた神の啓示の記録です。これに対して、『ハディース』はムハンマドの言行録です。いずれも相当に量が多く、記録の前後関係などもわかりにくいために、一貫した行為規範の体系化が志向されたようで、それがイスラーム法学だということだそうです(中田・前掲44頁以下)。
なお、イスラーム法は、「責任能力」のあるムスリム(※イスラーム教徒のこと)に対してしか適用されません。イスラーム法における「責任能力」とは、①理性を備えていること、②成人であることの2つが要件とされます(中田・前掲47頁)。
イスラーム法の適用範囲はムスリムに限られる。イスラーム社会の秩序を乱さない限り、ムスリムではない人間が何をしても、イスラーム法上は関知しないのです。
(中田・前掲58-59頁)
以上のことを、刑法理論の枠組みを援用・類推して考えてみたいと思います(一応、刑法ブログなので)。
イスラーム法における「罪」とは神の命令に違反することですから、倫理規範違反を違法と捉える一元的行為無価値論(主観的違法性論)に近いものと考えることができます。そうすると、神の命令を観念する前提として人間には自由意思がなくてはなりませんから、イスラーム法は必然的に非決定論を採用することになると思われます(現に、中田・120頁以下では自由意思と倫理について論じられている)。
もっとも、ここで問題とされているのは「神への信仰」ですから、命令違反の前提として神を信じていなくてはなりません。いわば、罪の成立に「違法性の意識」(罪の意識というべきかもしれませんが)が要求されるのです。この点が、違法性の意識を犯罪の成立要件として要求しない日本の刑法(の判例・多数説)とは異なっているところです。
日本の刑法は「犯罪の一般予防(抑止)」を目的としているので、法益の価値を信じるか否かにかかわらず犯罪の成立要件を満たせば犯罪は成立します。罪刑法定主義による行動基準の事前告知を前提とする以上は、そうしなければ、犯罪は抑止されないと考えられるからです。これに対してイスラーム法では、あくまでも「神への信仰」に焦点があてられるので、社会的に害のある行為を抑止するという考え方が(少なくとも直接的には)採用されているわけではありません。神が提示する命令規範に従っているかどうかだけが本質的な問題となっているものと思われます。
したがって、そもそも非ムスリムは神の命令を「知らない」のですから、神の命令に「自由意思であえて従わなかった」といったことが観念できないため、イスラーム法の適用がない、という論理になるのかと思われます。
なお、イスラームというと同害報復の絶対的応報刑論のイメージがありますが、これはこれで別の話になります。
◆イスラーム世界の社会モデル
この記事の分量ではイスラーム世界の(観念的な)全体像を記述することは到底不可能ですから、それを望む場合には最下段にあげた文献をあたってもらうのがよいかと思います。ここでは、ほんの一部だけとりあげます。
繰り返しますが、イスラーム法の法源はシャリーア「だけ」です。ここがイスラームを理解するポイントだと思われます。「アッラーのほかに神なし」という否定文を中心とした根本教義がありますが、つまるところ、シャリーアだけが法源(あるいは規範の正当化根拠)となるという限定を加える働きをしています。
「シャリーアだけが法源である」とは、論理上、シャリーア以外の一切の法源性は否定されるということです。たとえば、人が定めた法である実定法(制定法)には法源性がないことになり、そのような規範は「無効」とされるということになるのだと思われます。究極的には、実定憲法と法律で動いている「国家」をも否定することにつながるとも思われます。神=シャリーア=イスラーム法以外のものに従ってはならないと理解されるからです。
人間が制定した法律は可変的で誤謬を含んだ「規則」にすぎないとする観念は、過激派に限らず「穏健派」「中道派」とされるイスラーム主義者にもかなり共有されており、アッラーの啓示した法(シャリーア)に反する人定法は無効・不法である、とする主張をイスラーム主義の幅広い勢力が行ってきた。
(池内・前掲28頁)
このように、イスラーム法には超国家的な権威主義の側面があります。現実はともかくとして、建前論ではイスラーム法は中央集権的国家を否定することになるように思われます。統治機構がトップダウンで支配するという発想自体がイスラーム法原理からは出てこないので、解釈が公的に決定されずに開かれたままとなる一方で、「法改正」が観念できません。イスラーム世界は、各個人の信仰によるゆるやかな結びつきで成立しているのです(特定の価値観を共有する分散型ネットワーク・モデル。中田・前掲192頁以下では、これを「アナーキズム(無支配)」と呼んでいる)。そこには、国境もありません。
こうなってくると、西洋諸国を中心とする近代国家や国際秩序との関係性をどのように理解するのかということが理論上および実際上、問題となりえます。この問題に関して、「ジハード(聖戦)」というイスラーム法上の概念が非常に重要となるわけですが、この記事では触れられません。また、預言者の代理人である「カリフ」についても、この問題でたいへん重要なのですが、これも触れられません。詳しくは、以下にあげる文献をご覧ください。
▼イスラームの世界観について
▼現在のイスラム世界をとりまく国際情勢について