緋色の7年間

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疑わしきは被告人の利益に、無罪推定、推定無罪?

こんにちは~

本日のテーマは「無罪推定原則」です。

はじめに言っておきますが、

推定無罪」じゃないですからね。

それは、下のスコット・トゥローの小説の名前です。映画化もされました。

推定無罪〈上〉 (文春文庫)

推定無罪〈上〉 (文春文庫)

 

このあたりの用語を正確に使えるかどうかで、刑事法をまともに学んだかどうかがわかります。非専門家が用いる「推定無罪」という言葉は、法律家の間では「ネタ」です。真顔で「推定無罪」という言葉を使うと馬鹿にされると思ってください(法的情報に関してまさか Wikipedia を使う人はいないと思いますが、当該ページはタイトルから誤っていると言ってよいと思います。内容となっている法的情報についても、7割は間違いです)。

他方、「疑わしきは被告人の利益に」の原則は、現在の刑事法学では、無罪推定原則と互換的に使用されていますが(酒巻匡『刑事訴訟法』(有斐閣、2015年)476頁等参照)ヨーロッパ大陸法由来か英米法由来かという点で異なります。普通に教科書・基本書等を読んでいれば気づくと思いますが、大陸法的色彩が強い刑法学の領域では前者が使われる傾向にあり、英米法的色彩が強い刑事訴訟法学の領域では後者が使われる傾向にあります。また、内容も微妙に異なっており、前者は裁判所の視点であるのに対して、後者は当事者の視点です。我が国の憲法刑事訴訟法が採用しているのは、厳密には後者の「無罪推定原則(無罪の推定)」であると思われます。

それでは、無罪推定原則の根拠は何か?

まず、現行憲法の体系を見てみましょう。

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現行憲法は、全部で103条ありますが、そのうち人権に割り当てられているのは第10条~第40条までの計31の条文です。憲法の約30%は、人権保障と直接的に関連する規定だと思ってください。さらに、このうち第31条~第40条までの計10個の規定が、刑事手続の保障となっています。すなわち、人権領域の約1/3、憲法の約1割は、刑事手続の保障に割り当てられているのです。これは、とても大きな割合です。

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刑事手続の保障が、ここまで手厚くなった歴史的経緯の説明とかは省略します。だいたいお察しのとおり、戦前の反省から手厚い保障になっているものと考えてください。ここでは、刑事手続の保障について、もう少し詳しく見ることにしましょう。

憲法31条(いわゆる適正手続条項)が刑事手続の一般条項となっています。そして、憲法33・35条が捜査段階を規律する原理、憲法37条、38条1項は公判段階を規律する原理です。

憲法33条及び35条は、捜査段階で「プライバシーの合理的期待」を保障する趣旨であり、これを受けた刑訴法では、「強制の処分」に該当する捜査活動につき令状審査を中心とした法定の手続で規律するという仕組みを採用しています(強制処分法定主義+令状主義/刑訴法197条1項但書、「さくっと捜査の問題」参照)。「強制の処分」とは、重要な権利・利益に対する実質的制約(プライバシーの合理的期待の侵害)をいい(通説/古江頼隆『事例演習刑事訴訟法』(有斐閣、第2版、2015年)14頁参照)、たとえば、逮捕(刑訴法199条以下)、勾留(同法204条以下)、捜索(同法218条以下)、差押え(同条以下)、検証(同条以下)、身体検査(同条以下)、鑑定(同法223条以下)、通信傍受(同法222条の2、通信傍受法3条以下)などがこれにあたるものとして法定の手続で規律されています。最近では、いわゆる「おとり捜査」の一部や「GPS捜査」が、この「強制の処分」にあたるのではないかと裁判で争われたりしています。

憲法37条(当事者主義)及び憲法38条1項(弾劾主義)に関しては、既に別の記事で説明しました(「民事裁判と刑事裁判の構造的な違い」参照)

通説によれば、無罪推定原則は憲法31条が根拠とされますが、一般条項を積極的に用いるのはためらわれます。むしろ、解釈論としては弾劾主義と当事者主義のコンビネーションで考えていくべきであり、弾劾主義の下で被告人に自己負罪拒否特権が保障されることを根拠に、公判で被告人が主張・立証を含んだ供述の法的義務を負わない(強要されない)結果として、他方当事者である検察官が全責任を負うと解するのが適切です渥美東洋『全訂刑事訴訟法』(有斐閣、第2版、2009年)271頁参照)。これが、本来的な「無罪推定原則」のあり方だと考えるべきでしょう。すなわち、無罪推定原則は、公判廷において被告人が有罪であることにつき政策的に全挙証責任を検察官のみが負うという原則であると理解できます。「推定」というのは法律用語であり、日常用語でいう「推測」ではありませんし、「みなす」というのとも異なります。ここにいう「推定」とは、「挙証責任の転換・設定」という特殊な法技術的概念です(したがって、挙証責任について何ら言及していない刑訴法336条自体は、無罪推定原則と論理必然的には結び付きません)。

ここから導かれる論理的な帰結として、

  1. 無罪推定原則は、公判段階を規律する原理である
  2. 無罪推定原則は、訴訟当事者(検察官と被告人)の関係において適用される

裏を返せば、

  1. 無罪推定原則は、捜査段階を規律する原理ではない
  2. 無罪推定原則は、訴訟の外の私人(特にマスメディア)との関係においては適用されない

ということです。もちろん、無罪推定原則の適用範囲の拡張を考えることも可能ですが、本来的な理屈からすると、あまり広げられないのではないでしょうか。少なくとも、憲法や条約が私人間の関係に対してそのまま適用されるということはありませんし(通説・判例、そもそも「挙証責任の転換・設定」という法技術的概念が公判廷外で一般的に通用するとも思われません。したがって、非専門家からしばしば指摘されているような「推定無罪があるから報道では容疑者を犯人のように取り扱ってはならない」といった法的にはおよそ肯首しえない奇怪な論理によるのではなく、端的に、被疑者のプライバシー(あるいは名誉)とマスメディアの事実報道の自由との比較衡量の問題だと捉えて、各事案ごとに精緻な分析を図るべきです。

それでは~

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