こんにちは~
奇抜なタイトルですが、刑法上の結果無価値論と行為無価値論の対立を「オレンジジュース」で説明してみようと思います(いきなり意味不明)。今回は、カジュアルなかんじで話を進めていきたいと思います。
◆イントロダクション:「オレンジジュース」論争
「オレンジジュース」と聞いたとき、みなさんは、きっと次のようなイメージを思い浮かべたのではないでしょうか?
…こんなかんじですか?
「オレンジジュース」と聞いたとき、普通は下のような想像をしないでしょう。
スペースシャトル内などの無重量空間では、上のような球状になることもありますが、普通はこのようにはイメージしないわけです。かならず「コップ」などの容器が一緒にイメージされます。
日常生活でオレンジジュースの「中身」だけを思い浮かべると、そのオレンジの液体は全体に広がってしまいます。なぜならば、液体は形を保てないからです。
何が言いたいのかといいますと、「オレンジジュース」は、「容器」という形式と、「オレンジの液体」という実質の2つの要素で構成されているということなのです。
しかしながら、ここで「オレンジジュース」とは何かについて論争が生じます。一方の立場は、「オレンジジュース」とは「オレンジの液体」の部分であり、容器は含まないのだとするものです。これをオレンジジュース一元論と呼ぶことができましょう。これに対して、他方の立場は、「オレンジジュース」概念は、容器を含めてしか観念できないのだと考えます。容器と中身の2つを考えますので、これをオレンジジュース二元論と呼ぶことができましょう。
一元論は、二元論に対して、容器まで含めれば「オレンジジュース」の範囲が不当に広がってしまうと批判します。「容器」には色々な形があるから、これを「オレンジジュース」概念に含めればややこしいことになるというのです(容器自体は飲めないですし)。「オレンジの液体」だけを考えていけば、「オレンジジュース」をすべて説明しつくせるはずだとの信念が前提にあります。
他方で二元論は、一元論に対して、容器がなければ液体は形を保てず、「オレンジジュース」は無限に拡散してしまうと批判します。地面にこぼれた液体もなお「オレンジジュース」と呼ぶのには問題があるというのです(さっきとは別の意味で飲めないですし)。「オレンジジュース」を考えるにあたっては、まず容器があり、そこにオレンジの液体が注がれるのだと考えるほかないので、二元的に説明せざるを得ないとするのです。
◆結果無価値論 v. 行為無価値論 入門の入門
なかなかシュールな構図になってきました。
もう既にお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、「オレンジジュース論」には、「違法性論」と次のような対応関係を持たせています。
- オレンジジュース … 違法性
- 容器 … 形式的違法性(規範違反行為)
- オレンジの液体 … 実質的違法性(法益侵害又は危険の惹起)
…です。オレンジジュース一元論は「結果無価値一元論」、オレンジジュース二元論は「行為無価値二元論」にあたります。「無価値」とは、簡単に言えば、法的に否定的な価値判断のことを言います。字義的に言えば、結果に対して否定的な評価を下すのか、行為に対して否定的な評価を下すのかの思想対立ということになります。私の感覚からするとほとんど宗教戦争ですので、深入りはしないほうがよいかと思いますが、なかなか面白いので、ずぶずぶと泥沼にはまっていくわけですね(最近までこの泥沼にはまってました)。一度、泥沼にダイブしてみるのも悪くないと思いますが。
この対立の意義は結局どこにあるのかというと、私個人は「刑罰観」の違いにあると考えています。なぜ刑罰を科さなければならないのかという刑法の究極にして永遠の問いへの答えをめぐる論争です。決して「個別解釈論のパッケージ」だとか「解釈の整合性」などという浅薄な論争に解消されるのではありません。もっと根本的で根が深い問題です。実務家や受験生はもちろん、学者の中でさえ、モデル論の対立に疑念を持つ人は少なくありませんが、そういう人たちは「刑罰」について深く考えたことがない人たちだと思われます。みなさんが知っている有名な刑法の先生方の中で、この論争を軽く見た人はいません。そして、「モデル論から直ちに個別解釈の結論が導かれるわけではない」という点が指摘されていますが、これはもっともな指摘です。なぜならば、モデル論の最大の問題関心は、個別解釈論における結論の導出ではないからです。いわば、この論争が目指すものは、下(具体的な事案解決)ではなく上(刑罰の目的)にあります。この論争が泥沼になるのは、「天井」がないからなのです(一方で、「地面」はあるのですが)。わけもわからず泥沼につっこんだり、逆に、わかったふりをして泥沼を避けようとする前に、この点をぜひ押さえておいてほしいと思います。
それではまた~