緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

類型別法学教師

こんにちは~。シランやヤマブキが綺麗な季節になりましたね。今の時期は、カロライナジャスミンムスカリといった色々な花が咲いています。なんだか、これから殺伐とした業界の話をするのは気が引けるような気がしないでもありません。

本日のテーマは、大学の法学部や法科大学院などの「教師」についてです。以下のように、教師を4つの類型にまとめてみました。実際はここまで単純にカテゴライズできるような性質のものではないので、現実の教師がストレートにどれかにあてはまるということは、たぶんありません。どの類型も「〇〇偏重型」となっているのは、特徴だけ抽出したことによる必然的な帰結ですから、そんなに気にしないでください。なお、類型化の意義とかは特に何も考えませんでした。

1 知識偏重型

いわゆる「ゴミ安念潤司判例で書いてもいいんですか?」中央ロー6(2)(2009年)85頁の用語法による)である。言わずもがな、研究者・学者に多い。専門用語の羅列が得意で、平易な言葉で説明できない。本人は自分のことを専門家だと思っているので、自分の説明がわからないやつがバカなのだと考えている。採点講評などでは学生を見下すような記述がなされ、学生の試験の出来が悪かったことを自分の責任だとは思っていない。法科大学院の授業では、「~は知ってますか?」という質問を頻発し、教室が「知識披露大会」と化す。もちろん、ソクラテック・メソッドの誤用である。学生が答えられない場合、心の中で「~を知ってる俺すごい」といった優越感を持ち、「俺が教えてやるよ」と言わんばかりの態度をとる。「それは~先生が言ってるけど」と、学説が大好き。その見解は誰が言っていて、どこの文献に載っているのかをやたら気にする。実は、自分の頭で考えるのが苦手で、いつも誰かの見解を引用ばかりして「私もこれを支持する」と嬉しそうに自慢(にはまったくならないのだが)する。法律論自体に価値があると思っているため、具体的な事案を解決する気がなく、当事者を置き去りにした抽象論に終始する傾向がある。この類型の教師による授業は、コンメンタールの値段以下の価値しかない。

2 論理偏重型

非常に頭が回る人たちである。研究者・学者のほか、裁判官出身者もこの類型にあたることが多い。授業では、知識ではなく論理で説明してくれるので理解しやすい。が、考え方の大切さを強調する反面、基本的に「レトリック」や「アドホックな利益衡量」を受け容れられないので、行き過ぎると「暗記は不要だ」「考えれば答えは出る」などと言いはじめて、知識を軽視することもある。条文から演繹的に結論を導きたがる。有限回の推論規則を用いて解を導出できているうちはいいが、それが同時にその人の限界を生む。独善的な論理に傾斜するおそれを孕んでいるほか、形式的な言語論理にかまけて現実的な感覚が置き去りにされることもある。要するに、視野が狭く、社会常識がない。相手のバックグラウンドに対する想像力に欠けるところもある。本人は論理的に考えることができさえすればいかなる事象をも扱えると思っているので、教養的知識や社会人としての経験を欲することは少ない。この類型の教師による授業の価値は、その教師の教養や経験の広さにかかっている。

3 現実偏重型

勘やセンスの鋭い人たちである。リアリストで、弁護士に多い。交渉や裁判の場で一番相手にしたくないタイプである。論理的に考えていても、このタイプの人たちには勝てない。シンプルかつ説得力のある論理を多用し、複雑な論理は一切使わない。さらに言えば、言語論理外の手法も多用する。一般的には言語論理による説明が不得意な傾向があるが、この業界では司法試験に通らなければ弁護士になれないので、そういう人はほとんどいない。法は、論理ではなく力であると思っており、論理は力に従属すると考えている節がある。常に感覚が先行し、論理でそれを構成し直す。強いて欠点をあげれば、分野によって「現実」が異なるので、現実を突き詰めるほど活動領域が狭くなりがちであるという点であろうか。教師としてステキな人かどうかは、学生自身の価値観・興味・関心と、その人のキャラクターにかかっている。教師に対する好き嫌いがはっきりとわかれる類型である。

4 答案偏重型

いわゆる試験至上主義者。弁護士の一部や予備校関係者の多くがこの類型である。研究者・学者の中にもわりきってこのタイプになる者もいる。いつも「試験が~」「答案が~」と言っている人たちである。答案練習が大好きで、試験対策としては的確なことを言う傾向があるが、多くはそれ以上について何も考えていない。社会人の目から見ると、人間的な魅力や現実感、知識、経験に欠ける。知識も経験もない学生にとっては、目の前の試験が「現実」であるかのように見えるので、教師としては必然的に人気化する。学生の需要を捉えているという点では上の3類型よりも評価すべき面はあるが、社会としては本当にそれでいいのだろうかということを普通は気にする。この類型の教師が本当に教師として優れていたかどうかは、社会に出てからわかる。

…こんなかんじです。

それでは~

 

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