◆「生命倫理」のイメージ
こんにちは~
本日のテーマは、「生命倫理」です。
「生命倫理」というと、日本人の持つイメージは、外国の方が思い浮かべるのとちょっとずれる気がします。文献を読んでいても、そのあたりについてイマイチ話がかみ合っていない気がします。今回は、タナトロジー的なことにも踏み込みつつ、ここを掘り下げてみたいと思います。
日本人的には、「生命」というと、たぶんこんなイメージではないでしょうか?
日本人は、こういったほわーっとしたイメージが好きなのです。というか、そういう無意識の先入観やら執着やらがあります。
たとえば、日本の法科大学院では「リーガル・マインド」とカッコよく横文字で言っていますが、要するに「法律家<魂>」の訳語です。私には、はじめに "legal mind" という言葉があったとは思えません。実際、アメリカのロースクールでは "legal mind" とは呼ばず、"Think like a lawyer." (法律家のように考えよ!)といいます(同趣旨の指摘として、樋口範雄『はじめてのアメリカ法』(有斐閣、2010年)12頁参照)。
翻って、「生命倫理」という用語も、けっこうイメージがずれます。もともとの語は "bioethics" や "biomedical-ethics" であり、原義に近い訳をすると「生体医療倫理」のはずです。なんだか全然ニュアンスが違ってきませんか? 「生命倫理」は、私たちが思っているよりもずっと、ぬめーっとしているのです。「生命」というより「生体」のイメージなのです。生命倫理は、形があり、重みがある、ぬめーっとした人体を扱う分野ということです。本来は、高尚な抽象理論を扱う領域ではありません。
このような生命観の違いを表現するのは、なかなか難しいです。同じ国でもひとりひとり考え方が異なるので、本当は「この国はこうだ」と決めてしまうことはできないのですが、わかりやすさ的にあえてそういうイメージを提示すると、たとえば、いずれももともと日本のメーカーによる作品ですが、日本舞台の「零」という和風ホラーゲームと、アメリカ舞台の「バイオハザード」というホラーゲームの違いあたりが典型的です。前者はほわーっとしてじめじめした幽霊が敵ですが、後者はぬめーっとした凶暴な死体というかモンスターが敵です。「生命倫理」に対する認識も、それくらい異なるのだと思っておいたほうがよいかもしれません。
そういうわけで、「生命倫理」に対する認識といいますか、「生」や「死」自体についての認識が各国で根本的に異なる可能性があるという点を押さえてください。生命倫理の領域は、極めて文化的な問題を孕む領域なのです。
◆日本的死生観の形成と解体
そもそも、なぜ日本人がこのようなイメージを持つに至ったかというと、それは中国大陸との対比で考えたほうがよいでしょう。
まず、「生」とは「死」でないことをいいますから、「死」を考えれば「生」がわかります(「刑法解釈と他者関係性」参照)。西暦587年に蘇我馬子&厩戸皇子に物部守屋が敗退して以降、日本は中国大陸から文化を大々的に輸入しており、日本の文化は中国大陸からの影響を強く受けていたのです。当時(といっても、どの時点なのかは私には不明ですが)、中国大陸では、「死者」を「魂魄(こんぱく)」と捉える見解が有力だったようです。それが日本にも輸入されています。
「魂(こん)」とは、おなじみの「ほわーっとした霊魂」のことです。人間の身体を動かしている形なき中身の部分です。肉体から離脱可能な人間精神みたいなイメージです。これに対して、「魄(はく)」については馴染みのない人が多いのではないでしょうか。なぜならば、これは日本にあまり馴染まなかった概念だからです。「魄」とは、要するに「屍(物理的な死体)」のことなのですが、高温多湿な日本の気候では土葬した屍がそのままの形(ミイラ状態)で残りにくかったのです。このことを「土に還る」と表現します。ですから、日本では「魂」という概念しか定着しなかったわけです。ちなみに、何らかの振る舞いをする魂を「幽霊」と呼び、何らかの振る舞いをする魄を「キョンシー」と呼びます。したがって、中国大陸には幽霊もキョンシーもいますが、日本には幽霊しかいません。日本のイメージは、「零」シリーズのとおりです(※同作品は「霊(魂)」と「零」をかけていると思われます)。
で、色々途中経過を省略しますが、このような歴史的経緯から、日本の死生観は、江戸時代末期にかけて大要次のような形に発展しました。
つまり、生成と消滅を繰り返す普遍世界です。「あの世」と「この世」の二元的な世界観を形成することになります。キリスト教圏は、ものすごく大雑把に言えば、はじめに「神 God」がいて世界を創り、人間は自由意思を有する主体として人間以外の事物よりも優位にいて(Subject)、人間以外の事物は神の言語(=数式)で記述される(Object)という世界観でした。これに対して、日本の世界観においては、神だろうが人間だろうが生成と消滅を繰り返す世界で刹那的に生じるものでしかないのです。とりあえず一部のジブリ作品のイメージを思い浮かべていただければけっこうです。日本における「神」は、唯一絶対のものではなく、単なる巨大な「力」を持つ存在というか力そのものなのです。アダムスミス的「見えざる手」の頭には「神の」という言葉が後からつけられますが、日本にはそんな「神」はいないので、アメリカと比較してマーケット的発想が後退することになります。
ところで、「あの世」と「この世」の二元的な世界観といっても、実は、極めてファジーな世界観です。シンプルに「生=この世、死=あの世」ではありません。ここには、タイムラグがあります。つまり、「この世に生まれる」とは、全部露出説、一部露出説、分娩説のいずれによるのでもなく、7歳の時点で当該事象が発生します。それまでは「あの世」の者であり、「人間の形をした人間でない何か」であるわけです。このことを「7歳までは神のうち」と呼び、それまでは自分の行いに対して責任をとることはありません。「あらゆる意味で」人として扱われないのです。また、人間が肉体的に死んでも、直ちに「あの世」にいくわけではありません。しばらくはその辺に浮いています。「しばらく」とは、33年(1世代)くらいです。つまり、今生きてる人間がその人を忘れるころに真の意味で死ぬわけです。ここでは、特定事象に対する社会的受容が基準になっていることがわかります。生も死も段階的に訪れるものであり、いい換えれば、こうした世界観・死生観は村落共同体(社会、コミュニティ)による出来事の共同主観的な受容と対応していると考えることができます。
で、明治になってボアソナードがこういった日本のファジーな死生観をぶった切ったわけです。これが、我々が現在扱っている「人の始期」とか「人の終期」などの論点です。「生」や「死」は、段階的な推移ではなく、一時点で瞬間的に発生するものと捉えるのです。多くの研究者はアメリカやドイツの学説を輸入することばかりに力を割き、日本的死生観を無視して生命倫理を論じることが多いのですが、本当にそれでよいのかはよく考える必要があります。現代社会は、どこかで「生や死の社会的受容」という観点が欠落していないでしょうか?
それではまた~
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