あけましておめでとうございます、本年もよろしくお願いいたします。
人が並びすぎていて、おみくじを引くのは諦めました。
というわけで、今回のテーマは、「占い学」です。
えーと、はじめに言っておきますが、別に「占い」自体は、詐欺(刑法246条1項)ではないです。悪い占い師さんには詐欺っぽいことをやる人もいますし、「あんた○ぬわよ」などと申し向けて相手の不安を煽って恐喝まがいのことやる人もいます。他方で、人生相談やカウンセリングなどにかなり近いことを行っている場合も多々あります。
それでは、「占い」とは、いったい何なのでしょうか? 本当に何の根拠もなく行われているのでしょうか? 私たちは、なぜお金を払ってまで「占い」とか「おみくじ」とかをやるのでしょうか?
ここでは、「占い」とは何か、適切な「占いとの付き合い方」とは何かを少しだけご説明いたします。
厳密に検討するのであれば、エスノメソドロジー(※社会学におけるコミュニケーション分析手法のひとつ)とか、ラカン派精神分析(※フロイトの構造言語学的読解)とか、いろいろやりようはあるとは思いますが、今回も、そういう深いところにはつっこみません。また、本記事は、「占い」の内容的分類や歴史的考察を行うものではありません。あらかじめご了承ください(そもそも刑事法専門のブログなんですけどね)。
◆「占い」は未来を予測するものではない
第一のポイントとして、「占い」は、未来を予測するものではありません。
私たちが何かを占ってもらうとき、あるいはおみくじを引いたときでも結構ですが、いったい何を期待しているのかというと、おそらく「未来の予測」です。もちろん、大半の人は信じないわけですが、信じるとすれば「未来の予測」だと思い込みます。占い師の言述、カードや紙に書かれた意味は「占われる者の未来」だと、そう思い込みます。占いをやってもらった時に必ず頭に過る次の感想。
「ほんとうにそうなるの?」
しかしながら、「占い」は、未来を予測するものではありません。
「占い」に魔術的なパワーなんかあるわけないじゃないですか。人知を駆使しても未来は予測できません。魔術だろうが科学だろうが未来を正確に予測することは不可能です。「占い」は、「予言」とは異なり、未来を確定するものではありません。このような事態を「不確実性の霧」と表現します(主に金融業界においてですが)。
もっとも、占いによって、ある程度の未来を予測することは可能です。「霧」は一定程度晴らすことができるのです。
これは何も特別なことを言っているのではなく、現在において「情報」(※「不確実性を減ずるもの」として定義される)があれば未来は一定程度予測できるという一般論を述べているにすぎません。「占い」は、占われる者に対して「ある情報」を与えることにより、現在において一定程度未来の予測を可能にし、その予測をもとに行動することを可能にさせる技法です。たいそうなことを言っているように聞こえるかもしれませんが、別にたいしたことは言っていません。
◆「占い」の偶然性と無意味性
それでは、「占い」は、占われる者にいかなる情報を与えるのでしょうか?
興味深いことに、「占い」は、占われる者に何らの情報も与えません。実のところ、「占い」も「占い師」も何らの情報も提供しないのです。
タロットカードの例で考えてみましょう。
タロットカードは、基本的には各カードの絵柄の解釈によって意味を引き出します。タロットの詳しい説明は別のサイト・書籍にお譲りいたしますが、それはもう様々な意味が引き出されています。ところが、よく考えると、絵柄から引き出される意味は、人間ならば誰しもが持っている「こころのあり方」でしかないのです。実際のところ、カード自体に内在している固有の意味はありません。まず、この点が重要です。
次に、タロットカードには、「オラクル」や「スプレッド」といったカードの並べ方があり、カードの組み合わせはほとんど無限にありえます。その中から「偶然にも」ひとつの組み合わせが「意味ありげに」出てくるのです。まさに運命。
ここがトリックの鍵であり、同時に、健全な「占い」の成立条件でもあります。
よく考えてみてください。
もともとカード自体に内在している「意味」がないのですから、カードの組み合わせが無限にあろうと相変わらず「無意味」のはずです。ここで重要なことは、本来的に意味のないものが「偶然性」を介在させることにより意味があるように見えるということです。すなわち、占われる者は、無意味な組み合わせの中に「あるはずのない意味」を見出します。なぜならば、我々は偶然に起こった事実に耐えきれないからです。「幸運な出来事」であれ、「不幸な事故」であれ、必ず何かのせいにしなければ気が済まないのです。ビジネスで成功すれば自分の能力のおかげだと思い、製品事故が起これば企業を非難する。人間は「すべての現象には必ず理由がある」と思いたい。たとえそれを妖怪や幽霊のせいにしてでも、です。「占い」に対価を支払っていれば、その思い込みはさらに強くなります。こうして、偶然的な結果の発生によって、再帰的に原因が認識の中に構成されることになるわけです。
それでは、このあるはずのない「意味」(=情報)は、いったい、どこから出てきたのでしょうか?
繰り返しますが、占い自体も占い師も具体的な意味を与えません。そうであれば、占われる者が占いの中に見出す意味・情報とは、占いの外にある「占われる者自身のこころ」から出てきたものにほかなりません。占い自体が無意味であり、占い師が占いに何らの意味を与えないとすれば、占いから得られる具体的な意味は、ほかならぬ占われる者その人が与えていることになります。占いは、それ自体が無意味であることにより逆に意味を持つのです。とてつもなくパラドキシカルな論理です。もう少しわかりやすくいえば、占いによって導かれる具体的意味は、実は、自らのこころの中に最初からあったものなのです。
このように考えると、占いとは、自らのこころについて「気づき」を与えるものなのです。これが第二のポイントです。だから、占いは、人生相談やカウンセリングなどに接近するわけです。
◆「占い」の魅力と自己愛
こうして、「占い」とは、現在の自分の心理状態(という情報)を投影させる媒体として機能することになります。占われる者は、占い、たとえば、タロットカードやおみくじなどを通して現在の自分の心理を捉えることになるわけです。「占い」は、いわば「こころの鏡」の役割を果たします(占いだけが占いであるかのように装うことができます。)。したがって、「占い」の魅力は、「鏡」の魅力と同質のものです。これが第三のポイントです。
鏡が現在の自己の外面を投影するのに対して、占いは現在の自己の内面を投影しています。鏡に映る自己の虚像を「自己」そのものと信じるかどうかはその人次第です。同様に、占いに映る自己の虚像を「自己」そのものと信じるかどうかはその人次第です。「占いを信じるとあたる」のは不思議なことでも何でもなく、「鏡を見れば自分の姿が見える」のと同じです。占いは、鏡を見て身だしなみをチェックし、アレンジすることにより周りからの反応が予測できるという意味で「未来を予測できる」にすぎません。見方を変えれば、占いには、それを信じて行動することによる自己実現性があることになります。
そして、第三者が占いを信じる者について馬鹿らしいと感じるのは、第三者には占われる者を「直視」することが可能だからです。第三者は鏡を見なくともその人を直視できますが、その人が鏡(鏡像他者)を介さずに自分自身を直視することはできません。自分のことは自分ではわからないのです。自分の姿格好がわからないのは自分だけなので、鏡に自己の像が映ることの魅力はその人にしかわかりません。占いにハマっている人を見た時の感想と、ビルの窓ガラスで自分の髪形をチェックしている人を見た時の感想は、本質的に同じかもしれません。
鏡の魔力は時として強大であり、ギリシャ神話では、ゼウスの怒りを買ったナルキッソスという人物が、ゼウスによって湖に映る自己の姿に囚われてしまい、最後にはそれと一体化しようとして入水してしまいます。ここから「自己愛(ナルシズム)」という言葉ができました。「鏡」の魅力は、自己愛にほかならないのです。自己愛は自分の内側で閉じているがゆえに取り込まれると危険です。占いにハマっているのは自分にハマっているのと同じなので、行き過ぎて湖に沈まないように注意が必要でしょう。
◆まとめ
以上をまとめると、「占い」との付き合い方について重要なポイントは次の3点です。
「占い」は、
- 未来を予測するものではない
- 現在の自分のこころを投影する
- 鏡と同様の機能を果たす
ということです。以上を踏まえて、ぜひ「占い」を楽しんで(?)ください。